纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(4)

と言った話はさておき、なぜ「邪馬台国は東遷していない」と断定できるのか、と言うと、中国の史書にそのような記録が残っているからである。 

 

その中国の史書とは、旧唐書の巻199上 列伝第149上 東夷 の中に、倭国日本国伝の2つの並立している記録である。そこに倭国と日本国のことが記述させれている。 

 

なお今まで特に断りもせずに「邪馬台()国」と表現してきたが、魏志倭人伝には「邪馬(壱)国」と記載されているので、「邪馬壱国」が正しい表現かも知れないので、念のため。 

 

 

先ずは旧唐書・日本国伝

 

 

旧唐書   日本国伝 

2016年04月26日(火) 

テーマ
古代の資料 倭人伝など 

 

 日本国は、倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるを以って、故に日本を以ってなと為す。或いは云う、倭国みずらかその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。 

 或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)にして実(じつ)を以って対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。またいう、その国の界、東西南北各々千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は岱山りて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。 

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154087690.html 

 

 

 

現代語訳は以下のとおり。

 

 

 

現代語訳 『旧唐書』日本国伝 

2016年04月26日(火) 

テーマ:古代史の史料 倭人伝など
 

 

日本国は倭国の別種である。(だから、別国である)その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。
 

あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。

 

その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。
 

また言うには、「その国の領域は東西南北がそれぞれ数千里で、西境と南境はいずれも大海に達し、東境と北境にはそれぞれ大山があって限りとなっている。その大山の向こうには、彼らに従わない民族の国(それを毛人と称している)がある」と。 

 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154091518.html 

 

 

 

同ブログの次のNO.22には、倭国伝が載せられているが倭国はいにしえの倭奴国のことである。」と述べている。 

 

そしてNO.22には次のような記述があるので、参考に記載しておこう。

 

日本のことは、倭国日本国伝との二本立てとなっており、その当時でも九州の北部を倭国と認識しており、倭国とは別に日本国があることも分かっていたのである。 

 

しかも「日本国は、倭国の別種なり。」と認識していたのである。 

 

魏志倭人伝にも「女王國の東、海を渡ること千余里、また國あり、皆倭種なり。」と記述されているように、古くから日本列島には、お互いに言葉が通じ合う『倭人(倭種)』が住んでいることを認識していたことと思われる。 

 

ここでも(旧唐書でも)、倭国も日本国もみな倭種である、と認識している 

 

しかし「日本国は、倭国の別種なり。」(日本国は、古イニシエの倭の奴国の倭国とは異なる習俗を持つ国である。)と明確に記述している。しかも「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。」(また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。)とあるように、 

その日本国は九州の倭国を併合しているのである。 

・・・・・ 

 

 

このように北九州の倭国は(邪馬台国と言ってもよかろうが)、纏向の日本国(大和)に併合されていたのであるが、最近の邪馬台国物語にはそういった事柄は載せられていないのが残念である。 

 

卑弥呼邪馬台国が日本国(大和)になったとか、大和(纏向)が卑弥呼邪馬台国であったといった話が横行しているが、倭国と日本国は、折角中国の史書にまで、分けて記載されているのでこれは明らかな間違いであり、いい加減正してもらいたいものである。 

 

よく言われている邪馬台国が東遷して大和朝廷の基になった、と言うことは明らかに間違っているものである。邪馬台国は東遷していない。 

(続く)