纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(6)

その会同の坐起(集会の立ち居振る舞い)に、父子男女の別なし。人の性は酒を嗜む。【魏略に曰く、其の俗、正歳・四節をしらず、但だ春耕・秋収を計りて年紀と為せり、と】(抜けているので追記する。) 

大人を見て、敬する所は、ただ手を搏(たた)き、以って跪拝に当(あ・かわりにする)つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり。 

その俗、国の大人は、皆、四、五婦なり。下戸は或いは二、三婦なり。婦人は淫せず、妬忌(とき・しっとする)せず。盗竊(とうせつ)せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す。尊卑はそれぞれ差序ありて、相臣服して足る。 

祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。 

女王国より以北は、特に一人の大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。 

王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。 

下戸は、大人と道路で相逢へば、逡巡して草に入る。辞を伝へ、事を説くには、或いは蹲(うずくま)り、或いは跪(ひざまつ)きて、両手は地に據し、これを恭敬となす。対応の声は噫(あい)といふ。比して然諾(ぜんだつ・了解のこと)の如し。 

その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事(つか・行う)へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐(たす)く。 

王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍(はぺ)る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。 

女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。 

また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。 

また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。 

倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周旋およそ五千余里なり。 

景初二年六月景初・239年が正しいか、景初六月はまだ帯方郡は魏に接収されていないから)、倭の女王は大夫、難升米等を遣はして郡に詣(いた)り、天子に詣(まい)りて朝献するを求む。太守、劉夏は吏を遣はし、将(ひき)い、送りて京都に詣る。その年の十二月、詔書は倭女王に報いて曰く。 

制詔、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣はし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以って到る。汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。すなわち、使を遣はし、貢ぎ献ずるは、これ汝の忠孝なり。我は汝を甚だ哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮(あた)へ、装ほひ封じて帯方太守に付し、仮りに授く。汝は(それ)種人を綏撫し、勤めて孝順を為せ。 

【「其(それ)」は語調を整える無意味の助辞】
 

汝の来使、難升米と牛利は、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して労(ねぎら)ひ、賜ひて、還し遣はす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽(すうぞくのけい)十張、倩絳(せんこう)五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じ貢いだ所の値ひに答ふ。また、特に、汝に紺地句文錦(こうもんきん)三匹、細班華罽(さいはんかけい)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、みな装ほひ封じて難升米、牛利に付す。還り到らば録して受け、悉くを汝の国中の人に示すを以って、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜ふなり。 

正始元年(240年)、太守、弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉、梯儁(ていしゅん)等を遣はし、詔書印綬を奉りて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに、詔を齎(もた)らし、金、帛(しろぎぬ)、錦、罽(けおりもの)、刀、鏡、采物を賜ふ。倭王は使に因って上表し、詔の恩に答へて謝す。 

その四年(234年)倭王はまた使の伊聲耆(いせき)、掖邪拘(ややく)等八人を遣はし、生口、倭錦、絳青縑(こうせいけん)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)、丹、木拊(ぼくふ)短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将、印綬を一拝す。 

その八年、太守、王頎(おおき)官に到る。倭女王卑弥呼狗奴国男王卑弥弓呼(ひみくこ)(と)(もと)(より)和せず、倭載斯烏越(さいし・うえつ)等を遣はし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りてこれを告諭す。 

卑弥呼、以って死す。(つか)を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。 

さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与(又は台与)、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。 

壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣はし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。 

 

 

 

魏志倭人伝の構造 

 魏志倭人伝は、「魏の関連事項としての倭」を書いたものです。したがって「後漢の関連事項としての倭」を書いた後漢書倭伝とは立場が異なります。その根本的な違いを認識していないと、頭を混乱させることになります。魏志に「旧百余国」とあるのは漢書地理志燕地からの引用、「漢の時、朝見する者あり」は范曄に先立つ後漢代の書からの情報と思われますが、魏とは関係がないので、前史として、あっさり片づけています。
 一番後ろに、魏略の構造分析も加えましたが、後漢のデータを交えたと思われる魏略とは明らかに編纂姿勢が異なって、魏志の方が厳密といえます。
 

https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm 

 

この魏志倭人伝(上記)の『』内の部分が、中国の出先機関帯方郡から邪馬台国までの道のりである。

(続く)