纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(8)

ここらあたりはすでに小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(4~)」 (2018.08.13~)で詳細に説明しているので、そちらも参照願いたい。 

 

しかしながら「魏志倭人伝」には次の文言がある。これをどのように理解すればよいのか。 

南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。 

 

これを字面通りに読めば、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」もかかってしまうことになり、九州島から離れてしまうことになり、こんがらがる原因となっているのであるが、これは投馬国から続いている文章ではなくて、前文とは関係がなく独立した文言であると理解する必要がある。 

 

南、投馬国に至る。水行二十日なり。』もこの放射状の行程とは関係がなく独立した文言である。 

 

なんとなれば、伊都国からは放射状に東行し不弥国に至る、百里、更に伊都国から東南に奴国に至る、百里。と言った経路である。 

 

伊都国 → 東行 → 不弥国 至る、百里
   \東南
     \奴国 至る、百里

投馬国や邪馬台国は、先に述べたように里数ではなくて日数表示なので、この放射状行程からは外れるとみてよい。

しかも「郡使往来して常に駐まる所なり。」と、帯方郡の使いが常駐する所とかかれているので、郡使は伊都国で邪馬台国の役人たちと外交交渉を行っていた筈である。奴国では行っていたとの表現はない(行ったかもしれないが、それは最終目的地ではない。)。
 

と言うことはこの放射状の行程からは、『南、投馬国に至る。水行二十日なり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。』の文言は続かないものである。 

 

これを字面通りに読めば、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」もかかってしまうことになりそうであるが、この放射状の行程からは独立した文言と理解する必要があるのである。 

 

しかも水行十日でさらに陸行一月も要する距離であると理解することも間違っている。水行での距離で言えば十日ほど、陸行での距離で言えば一月ほどの距離となろう、と言う意味である。 

 

先の帯方郡から女王国までの道のりを掲載しておいたが、つらつら眺めるに、九州に上陸した後は、水行と陸行だけで渡海(海を渡る)とは一言も言っていないので、九州からは抜け出ていないと考えておく必要があるのである。 

 

このこと(九州からは抜け出ていない)は、「ABCアーク」社発行の「歴史人4」月号(APR.2022 NO.136)の「邪馬台国の真実」(高橋忠平氏)の38頁にも書かれているものである。 

 

先に答えを言ってしまえば、当時の魏の露布の原理で何事も十倍に数字を膨らませていたものであった。露布とは「戦時広報」のことで、何事も戦果を十倍に表現して誇大報告をしたものである。それと同じ書き方なのである。 

 

「こんなに遠いところから朝貢に来た、我が国の権威はこんなところまで行き届いている。喜ぶべきことだ」と言った意味合いを持たせたかったものと思われる。 

(続く)