小生の先のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(6)」(2018.08.15)から引用しておくので、ご一読願う。
『
従って「郡より女王国に至ること万二千余里。」の本当の距離は、十分の一にして1200里なのである。
先に、「当時の一里は434mだと言うので、帯方郡から邪馬台国までの距離は、12,000里× 0.434km =5208km となりとてつもない距離となってしまう。」と記述したが、十分の一となれば、僅か520kmである。
さて水行十日、陸行一月にもどろう。
先に述べたように、水行一日は120里で陸行一日は40里だと言う。すると次のようになる。
水行十日=120里×10日=1200里
陸行一月=30日×40里=1200里
万二千余里→12,000里×1/10=1200里
と言うように、この三者(水行十日、陸行一月、万二千余里)は、すべて1200里で一致する。
即ち、女王国までの距離は、水行で行けば十日ほど、陸行で行けば一月ほどの距離で、1200里ほどである、と言う事を示していることに過ぎないことになる。もちろん帯方郡から奴国まで陸行だけで行ける訳はないので、それほどの距離であると言う事を示しているものであろう。
だから里数表現部分と日数表現部分は、同じことを異なる表現であらわしていると考える必要があると言う事。
もう一つ注目すべきことは、「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」の一文である。そして次に21か国の国名が記載されており、最後に奴国があり、これが女王の境界だと言っているからには、女王国を奴国とすれば、それより北の国には、一応戸数と道里が記載されていることになる。
』
女王国は卑弥呼を頭(かしら)に置く30カ国ほどの連合国家であると、「魏志倭人伝」には書かれているが、この連合国家が倭国で魏志倭人伝では邪馬台国と呼ばれていた連合国家である。だから「邪馬台国」と言う単独の国があったということではなくて、連合国家を邪馬台国と呼んだのであるから、いくら邪馬台国の一国を探してもそれは見つかる筈もないのである。30カ国ほどの連合国家が「邪馬台国」なのである。
だから「女王の都とする所なり」は「邪馬台国」を指し、「女王国より以北は」の女王国は「奴国」を指すものである。と言うことで、「邪馬台国」の女王は、「奴国」に居を構えていたものと考えて間違いがないであろう。
その昔「漢委奴国王」との金印紫綬まで賜っていた「奴国」こそが女王の都する所であり、「宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」は「奴国」にあったはずである。
だが、日本(大和)からすれば、邪馬台国は九州地方の一国となるものである。
だから邪馬台国は、大和地方にある筈もなく、従って纏向遺跡や箸墓古墳は「邪馬台国」や「卑弥呼の墓」なんぞである筈がないのである。
卑弥呼はあくまでも北九州の地方都市(国家)の連合国家・邪馬台国の女王であり、箸墓古墳に葬られていると言われている「倭迹迹日百襲姫命」( やまとととそももそひめ)などになぞらえられるものではないのである。
と言うことで、邪馬台国は九州に存在した「卑弥呼」を王とする30カ国ほどの連合国家であり、奴国に居城を構えていたものである、と断定することが出来るものである。
だから決して纏向遺跡が邪馬台国で、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるなどと言うことはある筈もなく、大いなる間違いである。
(続く)