纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(13)

先の高橋忠平氏の説とこの武光誠氏の説とは、全くの正反対であり、それが同一の書籍に前後して載せられていることには、少なからず驚いた次第である。 

 

であるならば、どこかにその旨の解説を載せて頂けたら、もっとわかりやすくなったのではないのかな(素人には)。 

 

いずれにしても「旧唐書」と言う文献の内容にも言及されていないということは、少し残念な気がするものである。「保存版特集」と銘打っている「古代史の謎」であれば、編集人も今少し目を光らせておいてもらいたかったものである、・・・・・と、そんな思いがするものである。 

 

 

しからば「卑弥呼」はどこに葬られているのであろうか。 

 

魏志倭人伝」には、次のように記されている。 

 

卑弥呼、以って死す。(つか)を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。 

 

先に言っておくが、径百余歩や徇葬者百余人は「露布の原理」ですべて1/10で考える必要がある。 

 

だから「径十余歩」で「徇葬者十余人」となる。 

 

径は一歩が144cmなので、径百余歩は直径が140~150mとなる大きな円墳となるが、その十分の一となれば14~15mほどの円墳(実際には方形周溝墓であったが)となる。 

 

徇葬者百余人も十分の一となれば、十数人である。 

 

このことを考えれば、箸墓の後円部の直径は156mであり大きすぎるし、円墳ではなくて巨大な前方後円墳である。更には徇葬者は一人も見当たらないのである。 

箸墓は円墳が先にできて後から方墳が付け加えられた、と言った意見もあるが、航空レーザー測量の結果後円部と前方部に継ぎ目はなく当初から前方後円墳として一体として築かれていたことが分かっているのである。 

 

 

【THE古墳】箸墓古墳 宇宙から卑弥呼に迫る 

2021/12/8 08:00小畑 三秋無料会員記事 


箸墓古墳の航空レーザー測量図。後円部の頂上(中央やや右)に掘り返された跡はみられず、未盗掘の可能性が高まった(奈良県橿原考古学研究所アジア航測提供)
 

 

宮内庁が厳重に管理し、関係者以外は立ち入れない箸墓古墳奈良県桜井市)。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ともいわれるが、内部の発掘はできず謎のまま。何とかして中の様子を知りたい-。地上が無理なら、空から、宇宙からと新たなアプローチを試みるのが同県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)。上空からのレーザー測量では、樹木に覆われて見えない墳丘の姿が明らかになり、石室のある後円部が築造時のままで未盗掘の可能性が高まった。石室については、宇宙から飛来する素粒子ミューオンを利用して解明に挑む。果たして宇宙から卑弥呼は見えるだろうか。 

 

 

未盗掘の可能性高まる 

 

箸墓古墳は、最古の巨大前方後円墳として古墳時代誕生のカギを握る重要な古墳でありながら、墳丘の状況を知る手立ては大正時代の宮内省(現宮内庁)の測量図など限られていた。「地元の研究機関として古墳研究の可能性を広げたい」。平成24年、橿考研と航空測量会社「アジア航測」は航空レーザー測量という手法で、空からの調査に挑んだ。 

 

上空500メートルからヘリコプターでレーザーを毎秒40万発照射し、地表から反射してくる時間を測定。時間のわずかな違いから地形の起伏を割り出すため、墳丘の精密な姿が分かるという。レーザーは樹木の葉は貫通しないため、落葉していた春先に行った。 

墳丘内はいっさい入れない箸墓古墳。ただし、冬場の水が少なくなる時期には近くを歩くことも=平成31年3月、奈良県桜井市  

 

結果は、大正時代に人の手で測量された図面と大きく変わることはなかったが、普段は樹木に隠れて見えない墳丘が立体図の形で詳細に判明。墳丘の後円部がピラミッド状に5段、前方部は3段に築かれたことが明らかになった。とりわけ、被葬者を納めた石室がある後円部の頂上は掘り返された跡がみられず、石室内は未盗掘で副葬品がそのまま残っている可能性が出てきた。 

 

後円部の頂上は、過去の宮内庁の観察で大量の石が何メートルも積み上げられているとされる。盗掘を免れた背景について石野博信・橿考研元副所長は「盗掘者は、中に宝物が埋まっていると知りながらも、石が大量すぎて掘るに掘れなかったのではないか」と推測する。 

(続く)