纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(15)

先に言ってしまえば、卑弥呼はそこの平原遺跡に葬られているのである。 

しかも徇葬者のある墳墓は、日本国中探しても、この平原遺跡にしかないのである。 

ここらあたりのことも、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(12)」 (2018.8.23)から転載しておく。そこでは埋葬されていた鏡についても言及しているので、ご一読願う。 

 

 

8.女王卑弥呼の墓

同書の223頁からは卑弥呼の墓のことに言及しているので、それを簡単に紹介しよう。

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、百余人。」と径百余歩と相当大きい。

径百余歩とは、約145mだと言う。かなりでかい。そして、「大いに冢を作る。」とあるように、魏使はその墓を見た可能性が高い。

魏使は伊都国に常駐していた訳であるから、卑弥呼の墓を見たというからには、その墓は女王国・奴国ではなくて、伊都国にあったのではないのかな。

しかも計百余歩というとてつもなくでかい墓であれば、既に見つかっている筈であるが、こんなでかい墓はいわゆる「前方後円墳」に該当するが、卑弥呼の時代は弥生の後期古墳時代ではない。

従ってこれも「露布の原理」で1/10すれば、「径十余歩」で「百余人」は十余人となる。

とすればそれに該当するお墓は既に見つかっている。それは平原遺跡ではないのかな。

その遺跡は糸島市前原町にある。東西二つの遺跡により構成されている。

主墳は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲にめぐらされている、という。

円墳ではなくて、「方形周溝墓」と言われるお墓である。その中央部に、W1m×L3mの割竹型木棺が据えられており、副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスと言ったアクセサリー類が多い。

と言う事はここに葬られている人物は、確実に女性ではないか考えられている。

そして従墳は、東西13m、南北8mで、周囲の溝からは16人の殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が発見されている。

・・・徇葬する者、百余人。」とは、これを十分の一して十余人とすれば、16人の殉葬者とはきっちりと合う。

同書の226頁には、次のように記述されている。

卑弥呼の墓の条件の一つは「殉葬者のあること」だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。➀女性であり、②殉葬者がある、となれば、もう答えは一つしかないかも知れない。
この平原遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている。


この平原遺跡は、その後の調査から、合計五つの墳墓からなっている。Wikipediaによれば、2~5号墓からは青銅器類の遺物は発見されていないと言う。

しかしこの一号墳からは、40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は、直径46.5 cmもの大型内行花文鏡であった。

天照大神の「ご神体」の「八咫鏡」が伊勢神宮の内宮に奉安されているが、この大型内行花文鏡と大きさ、形が同じものである、とされている。

一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐(やひろわに、サメのこと)」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する[2]。

後漢の学者・許慎の『説文解字』には、咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)

とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。


と(https://ja.wikipedia.org/wiki/八咫鏡)には記載されているが、この内行花文鏡は直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmであり、将にとは言わないが、これに該当するものではないのかな。

(続く)