纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(16)

この平原遺跡を発掘した考古学者の原田大六氏によれば、この平原遺跡にて発掘された大型内行花文鏡が、八咫鏡そのものであると言う。


次の鏡が、「http://inoues.net/ruins/itokoku.html」から借用した大型内行花文鏡である。
 

 

 







まあ卑弥呼は、この内行花文鏡を大切にしていたものと思われるが、たったの五面でしかない。しかし余程大事なものであったのであろう。

上記説明では四面と書かれているが、実際の面数は五面であった。破砕されていたため復元の仕方によって四面としていたが、正確な復元の結果五面であることが判ったのである。

残りは、32枚が「方格規矩四神鏡」で、内行花文四葉鏡が2枚、四ち鏡が1枚の合計40面(枚)であった、と上記には記載されている。これらは全て漢鏡である。








http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html より。(京都国立博物館


ここには、いわゆる有名な「三角縁神獣鏡」は、一面もない。

結論から言うと、三角縁神獣鏡は漢や魏の鏡ではなく、倭国・日本で作られた大量生産品であった。

現在560枚ほどが見つかっている、と言う。

魏の明帝が、景初二年(三年が正しい?239年か)六月に、倭の女王が派遣した大夫難正米等に賜った宝物の中に、銅鏡百枚があったが、これらは「三角縁神獣鏡」ではなかったのである。

百枚のうち40枚は卑弥呼日巫女または日御子)の墓に埋葬され、残りの60枚は邪馬台国などの各国の王などに配られたものと思われる。
 

 

 

ここに鏡の話が出てきたので三角縁神獣鏡についても、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(13)」 (2018.8.24)から転載しておく。