纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(21)

さて女王が居城していた奴国の南には狗奴国があり、男王の卑弥弓呼(ひみくこ)とは仲が悪かったと記されており、たびたび戦火を交えていたようだ。 

 

卑弥呼(ひみこ)と言い卑弥弓呼(ひみくこ)と言い、なんとなく馴染みにくい名前となっているが、卑弥呼は「姫命ヒメミコ」で卑弥弓呼は「彦命ヒコミコ」ではないかと言った意見もあるようだ。 

 

また本文は「卑弥弓呼素(ひみくこそ?)と和せず、」となっているが、その他の大半のものは「卑弥弓呼モトより和せず、」となっているので、念のため指摘しておく。 

 

しからば、その卑弥弓呼(ひみくこ)を男王とする狗奴国はどこにあったのであろうか。 

 

奴国が女王国の南の境界であり、その南に狗奴国があったと記されているので、奴国の南のそれほど遠くないところに狗奴国はあったと思われる。 

 

とすると、その狗奴国は、今の吉野ケ里遺跡が該当するものではないのかな。 

 

すると投馬国は、宮崎県の「西都原古墳」の辺りになるのかな。近くには日向市もあり、神武天皇のゆかりの地でもあり、話には事欠かないのではないのかな。 

 

さて「魏志倭人伝」の行程の話からあちこちに跳んでしまっているが、二、三気になる事柄に言及してみたい。 

 

その一つ目は、末羅国(まつらこく)のことである。何気なく(とは言わないが)読み飛ばしてしまったが、末羅国には四千余戸もあり相当大きな国であるが役人の名称の記載がないのであり、更には方角表示もない 

 

これも何らかの意味があるものと思わなくてはならないのではないのかな。 

だが、末羅国から伊都国へは東南陸行五百里となっているので、末羅国に寄港して下船したような書きっぷりである。 

 

しかも末羅国の状況は意外と詳しく書かれているのに、なぜ役人の記載がないのであろうか。しかも「津に臨みて捜露す」とも書かれていない。これは伊都国のところに書かれている。扱いが(ある意味)ぞんざいである。 

 

末盧国は今の松浦地方で唐津市辺りであり、伊都国は古代の怡土郡、今の糸島市辺りで先ず間違いがなかろう。奴国は日本書紀の儺縣、今の春日市を中心とする福岡平野の一帯にあたる、と見てよいであろう。


末盧国 松浦川流域 唐津平野一体 菜畑遺跡・桜馬場遺跡・宇木汲田遺跡など
伊都国 怡土 福岡県糸島市辺り 三雲・井原・平原遺跡
奴国   春日市中心の福岡平野一帯   須玖岡本遺跡(平原より20kmも離れている)
不弥国 伊都国からは、奴国と同じ距離だけ百里はなれている。

では不弥国はどこにあったのか。うみ(海)とすればそれは海岸線となる、と考える必要がある。 

 

と、「邪馬台国とは何ぞや?(9)」 (2018.08.20)には書いておいたが、 

 

ここらあたりも小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(10)」 (2018.08.21)から転載しておく。 

(続く)