纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(22)

7.不弥国の謎、筆法の確認

 

同書202頁より、不弥国の謎、として「六つの筆法」が隠されている、と解説している。

それを次に羅列してみる。

(1) 先の分析でもわかるように、不弥国の「百里」は宙に浮いている。これを含めると「郡より女王國に至ること萬二千余里。」が成り立たなくなってしまうからである。

(2) 「倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかり。」の表現であるが、萬二千余里から 狗邪韓國に到ること七千余里を差し引けば、計算上「 周施五千余里ばかり 」となるのは明らかである。これは明らかに不必要な表現ではないのか、という疑問が残る。それには何か理由があるのではないのか、と考えなくてはいけないのであろう。

(3) 末盧国の場合、「又一海を渡ること千余里」と書かれており南と言う方角表記がない。

(4) また末盧国の場合だけ、役人の官名の記載がない。このことも何かを意味しているのではないのか。

(5) 一大国と不弥国のみの戸数表示が、戸(こ)ではなくて家(け)となっている。これも何か意味があるのではないのか。

このように文の違いに意味を持たせるものが、「筆法」なのである。だからその意味を考える必要があるのである。

(6) 狗邪韓国 と伊都国に限って、到着の「到」の字がつかわれて、他は「至る」と通過の意味が強い字が使われているのか。

これも一考を要する。


先ず(6)の「到」に注目してみよう。

「到」は一般的に、目的地に到着することを意味する。反対に「至」は通過することを意味する言葉である。即ち「至」を通過して目的地に「到」着するのである。

だから伊都国が最終目的地ではないか、との推測が即座に浮かんでくる。

しかも「郡使往来常所駐」( 郡使の往来して常に駐まる所なり 。)であり、更には「一大率・・・常治伊都国」(一大率が・・・常に伊都国に治す。)と表現されており、常駐、常治と表現している。

魏からの郡使が常駐して、更に一大率と言う強力な権限を持つ行政官が(邪馬台国から派遣されて)常治(権限を行使)していたのである。

郡使の交渉相手(一大率)は常に伊都国に居て、郡使は常に伊都国で話し合いなどを行っていたのである。だから郡使も伊都国に常駐せざるを得なかったのである。そのため魏の郡使は奴国(女王の都する所)へは、(常には)行っていなかったものと思われる。

反対に奴国や不弥国へは、伊都国から放射状に旅行する行程となっていることからも、伊都国が倭人伝の中では特殊な地位を占めていたものと思われる。

このような状況からして、魏使の最終目的地は伊都国としても、全くおかしくはないのであり、魏使達は伊都国を目指して、旅程を進めていたのである。だから「到」の字が使われているのである。

また十世紀に成立した「太平御覧」には、「帯方使往来常止住」と「常に止まりて住す」との解釈が記載されていることも、このことを立証しているものと思われる(207頁)。

とすれば8/14のブログで述べた「不弥国の謎」も推定が出来る。即ち「不弥国」は、伊都国へ行く直前に通過する国の一つである、と考えることもできる。

しかも伊都国からの距離が、奴国と同じで百里とされている。しかし「露布」の原理を適用すれば、距離はその十分に一となり、伊都国から百里ではなくて十里=4.34kmの近場にあり、不弥(ふみ)=うみに通ずると考えれば、弥生時代の海岸線に接する地点辺りに不弥国があったと考えられる、筈である。

魏志倭人伝では、「郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ」とあるように、この津に臨みての「津」が不弥(ふみ)=うみではないのかと推察しても差し支えなかろう。

(続く)