纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(23)

しかし8/21(NO.9)で述べたように、伊都国は福岡県糸島市辺りで平原遺跡周辺と考えられるが、反対に奴国は春日市中心の福岡平野一帯で須玖岡本遺跡辺りが中心と考えられる。とすると須玖岡本遺跡は平原より20kmも離れているので、全く上記のこととつじつまが合わなくなってしまう。

しかし女王都する所とは、それなりに神聖な場所であり、「宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」であり、遺跡のある奴国の中心のにぎやかなところではふさわしくはなかろう。

更には「王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。」と言う事で、男弟が助けて国を治めていると言うので、当然伊都国の近くにあり、伊都国王(男弟)が卑弥呼を助けているからには、平原遺跡から十里(4.34km)の近場に女王の都する所はあった筈である。婢千人とは大げさなので、1/10で百人程度であろう、それにしても大人数である。

同書は、平原遺跡から4.34km程の同心円を描き、その東南の方向を辿ると「高祖山たかすやま」に行き当たる、と記述している(219頁)。高祖山卑弥呼の「宮室・楼観、城柵」が建てられていれば、伊都国近辺からは当時としては、よく見えたのではないのかな。だからあたかも見たかのような表現が、この魏志倭人伝にあるのであろう。実際に魏使は見ていたものと思われる。

この高祖山に「宮室・楼観、城柵」が建てられ、卑弥呼の居城となっていたものを、(高祖)山の都と表現したかもしれない。ヤマのト、邪馬台国であったのではないのかな。

卑弥呼は鬼道をよくしていたからには、この高祖山がその神域、特別霊域であったのではないのかな。他のところでは鬼道にはふさわしくなかろう。

すると不弥国も、この同心円上に存在して、しかも東方向だ。地図を開けば、そこにはJR筑肥線周船寺駅がある。船にまつわる地名のこのあたりが不弥国の津であったところではなかろうか。

この周船寺駅は福岡市西区周船寺町にあり、丁度糸島半島の付け根部分にあたる。昔大和朝廷太宰府出先機関の主船司(しゅせんし)が、この地に置かれていた場所である。主船司とは今の海上保安庁の出先と考えればよかろう。

だからこの辺りは、その昔は海に通じていたところであった、筈だ。糸島市はもとは怡土郡と志摩郡にわかれており、志摩郡は「日本書紀」の嶋郡で古代は文字通り島だったのだ。三世紀当時には、この糸島半島の付け根には「糸島水道」という水路が横に走っていたとされる、と同書には書かれている(209頁)。

大宰府の主船司も今日の税関のような機能を果たしていた訳であるから、伊都国時代にも「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」と同じ機能を果たすべく適したところであったのであろう。

この嘗ての糸島水道の出口にあたる周船寺付近が「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」の津であり、そこが不弥国であるとすれば、あらかた筋が通る。

とすれば、伊都国から不弥国へ行くのではなくて、反対に不弥国の津まで船で来て、そこから陸路で伊都国(平原)へ到ったのである、とすればすべて解決するのではないのかな。

地理的には次のような感じとなろう。


       糸島半島

      古代糸島水道 → 博多湾

  魏使----→→
主船司(不弥国)

      
↑水行     ↓-//

   
 平原(伊都国// 陸行

            高祖山(宮殿所在地、
奴国        

 

(続く)