纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(31)

それが何時の頃からの話かは定かではないが、1万6,500年前の土器青森県津軽郡外ヶ浜町大平山元Ⅰ遺跡で発見されていることからも、日本列島では、相当古い時代から一定の組織化がなされていたものと思われる。 

 

朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡が50箇所程しかなく、日本には2010年の集計で1万150遺跡存在していると言うことは、日本の旧石器時代の遺跡・文化は大陸、なかんずく朝鮮なんぞから伝えられたものではなく、3万8,000年前頃にオホーツク方面や南西諸島方面、朝鮮半島を素通りして日本にやってきたホモサピエンスたちが、形作ったものであろう。朝鮮(半島)は太陽(ヒ)出所(ひいずるところ)ではないからである。 

 

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)や日立(ひたち)と言ったところこそ、「ひいずるところ」であったのであろう。太陽の(一番早く)昇るところだったのである。 

 

と言うことは、大八島を統べる機能としての「高天原」とその統治されるところの「葦原の中つ国」との関係を日本列島に置き換えてみると、「高天原」は関東地方、なかんずく常陸の国を中心とした関東一円、「葦原の中つ国」は中部、北陸、東北地方一帯を指し示すものではないのかな、と想像できるのである。 

 

この時点では、関西や九州地方では人口はとても少なかった、と見積もられているからである。 

 

そして田中英道著の「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)には、縄文時代の遺跡数から人口を推定しているが、それによると(P22) 

 

(人口比率)東日本 対  西日本 

縄文中期   100    4 

縄文後期   100    14 

弥生時代   100    68 

 

と言うことで、圧倒的に東日本の人口が多いのである。 

従って縄文文化は、東日本でまず花開いたはずである、としている。西日本の人口が増えてきた時期は、弥生時代からであった。 

 

ここでは、 

東日本は、東北、関東、東海、中部山国、北陸 

西日本は、近畿、中国、四国、九州      としている。 

 

そして縄文時代各期の地方別遺跡数(サンプル)として、数表が載せられているが(P27)、なぜか数が合わない部分があるので、地方別遺跡数だけ次に載せておく。これにも不突合が見られるが、傾向はよくわかる。東日本が優勢なのである。 

 

 

   サンプル遺跡数 

東北   414 

関東   682 

東海   171 

中部山国  80 

北陸    53   1400(100)        

近畿    84 

中国    65 

四国    12 

九州   186    347(24.8)      

全国   1743   1743---→1747が正しい       

 

このサンプル遺跡数は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期、uji 別に遺跡数が書かれている表となっているが不突合部分があるので、掲載はやめておく。またujiの意味の説明がないので、何か不明である。 

 

何れてしても、東日本に人口が集中していることはわかるので、このあたりが「葦原の中つ国」であり、高天原は「関東」にあったであろうことは理解できるのである。 

(続く)