そしてこの東日本を「日高見国」と、当時は呼んでいたのである。
関東で遺跡数の多いところは、現在の東京、千葉、茨城、埼玉南部、そして千葉の加曾利貝塚のあったあたりであるので、ここら当たりが「日高見国」の中心であったと書かれている(P27)。
そしてその地域は、丁度「縄文土器」のあらゆる時期のものが出土する地域に当たっているので、縄文文化が、最も普及していた地域であったものと思われる。
しかしながら「日高見国」は旧石器時代や縄文草創期に形成された国家であり、相当古いものであったので、古事記にも載っていませんし、日本書紀では第12代景行天皇の御代の記述に、わずか2ヵ所に現れるのみである、とその書には記載されている(P31)。
また平安時代の「延喜式」の祝詞「大祓詞」には、「大倭日高見之国」と言う言葉が述べられているが、これは大和と日高見国とが合体して日本と言う国家が出来上がったという認識ではないか、とそこには書かれている(P32)。
正式には、「旧唐書」にも述べられているように、この国家(大和朝廷)が大国倭国を併合して、日本と名乗るようになったものと思われる。
と言うことは、大和朝廷が成立する以前の日本列島には、「日高見国」と呼ばれていた国が存在していたことになる。
そしてその首都が「高天原」であったわけで、「天地初発之時」にその高天原に成り出でた神が三柱あったが、その三柱の神が、天之御中主神アメノミナカヌシノカミ、高御産巣神タカミムスヒノカミ、神産巣神カムムスヒノカミであった。(当ブログNO.25、8/5)
この高御産巣神タカミムスヒノカミ には、「高見、産巣、日」と読むことが出来る、とその書のP56には書かれているように、日高見の3文字が見られるのである。
この高御産巣神タカミムスヒノカミ は、国譲りの際に出雲の大国主命のもとに、武御雷神タケミカズチノカミ と経津主神フツヌシノカミ を派遣した神でした。そして見事平和裏に、国譲りが成立したのであり、それほど大切な神々である。
この武御雷神タケミカズチノカミ は茨城県鹿嶋市の「鹿島神宮」に祀られており、経津主神フツヌシノカミ はそのすぐ近くの千葉県香取市にある「香取神宮」に祀られている神なのである。
今でこそ神宮と名の付く神社は、霧島神宮など明治の初めに制定された神社など多数存在するが、正式には(古来からは)この「鹿島神宮」と「香取神宮」と日本書紀による紀元前4年とも、また垂仁天皇崩御の時期の3世紀とも云われている成立の伊勢神宮の三社だけであった。
だから、「鹿島神宮」と「香取神宮」は「伊勢神宮」よりも創建が古い神社(神宮)なのである。
このことは、武御雷神タケミカズチノカミ も経津主神フツヌシノカミ も関東が拠点であったことを示しており、高天原はこの関東にあったことになるのである。
そして武御雷神タケミカズチノカミ と経津主神フツヌシノカミ を派遣した高御産巣神タカミムスヒノカミ も高天原・関東に存在した神であり、当然、日高見国の統治者であったのである。これらの神々は天照大神よりも古い神々なのである。
ここで田中英道著の「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)では、高天原は、「富士山」ではないか、と言った説を展開しているが、高天原では稲作などが行われており、地上の世界と同じ風情であったことから、一足飛びに飛び越して、「高天原が富士山である」と言った説にはすぐさま承諾しかねるものであるが、高天原の象徴的守り神的存在として富士山を「高天原」と称するのであれば、少しは納得できるのではあるが、富士山そのものを高天原と断言するのにはいささか疑問が残るものである。
(続く)