纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(33)

実際に、富士山麓に縄文や弥生の連続した遺跡が、見つかっているのであろうか。不勉強ながら小生は、そのような話はそれほどはっきりと聞いたことはないのである。だから高天原の神域としての象徴として、富士山を指定するのであれば納得は出来るのであるが、高天原そのものが富士山麓にあるとすることには、かなりの違和感を感ずるものである。 

 

縄文や弥生の遺跡が多数存在する関東地方こそが、葦原の中つ国こと大八洲国を統治するにふさわしい場所ではなかったのかな、と思うのである。 

 

事実、群馬県みどり市笠懸街阿左美地内の丘陵の切通しの関東ローム層から、民間の考古学者の「相沢忠洋」によって旧石器時代の石器が発見されることによって、日本にも土器を伴わない石器だけの縄文時代よりも古い文化が存在することが証明されたのであるが、その後発掘調査の結果それらの石器群は、約3.5万年前約2.5万年前のものと判明したのである。 

 

これらを、岩宿Ⅰ石器文化、岩宿Ⅱ石器文化と呼び、岩宿には長い間旧石器時代・先土器時代が続いていたことが分かってきたのである。 

 

その後も続々と旧石器時代の遺跡が発見され、100人程度の集落跡とされる「環状ブロック群」なども発見され、関東地方には石器時代からホモサピエンスが、それなりに定住生活を送っていたのである。 

 

日本では後期旧石器時代の遺跡が、2010年の集計で1万150遺跡存在していると(P50には)書かれているが、日本列島には相当古い時代から人間が住み着いていたのである。ちなみに朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は50程度しか見つかっていないので、ホモサピエンスが日本にやってきた主要なルートは、多分北からと南からであったのではなないのかな 

 

事程左様に、関東地方では古くからホモサピエンス・人間が住み着いていたわけで、高天原には相応しい地域である、と小生は想像しているものである。そもそも、ホモサピエンスたちは太陽の昇るところを目指して日本にたどり着いたのであるから。 

 

ここら辺の事情は、小生のブログ「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(30~33)」(2020.9.7~10)などを参照願う。 

 

 

高天原・関東地方からはかなり離れるが、青森県三内丸山遺跡Wikipediaによれば、約5900~4200年前の大規模集落遺跡で、縄文時代前期中頃から中期末葉のものであるとされている 

 

この遺跡は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、2021年7月ユネスコ世界文化遺産に登録されているが、これは世界四大文明と同じ時期の文明であり(P25)、そんな意味で、世界五大文明としても良いほどのものである。 

 

また秋田県角館市の「大湯環状列石」は、縄文時代の(中期から)後期の4,000年前の遺跡であり、万座遺跡の環状列石は最大径52m(又は46m)で国内最大のストーンサークルである。野中堂環状列石は直径44mであり、祭祀遺跡、多分他の類似遺跡から推定すると墳墓ではないかと推定されている。 

https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/oyu 

 

そして、そのそれぞれに日時計状の組石が存在している。 

 

日時計状組石(野中堂環状列石) 縄文時代後期・4000年前 

https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/oyu 

 

 

 

日時計状組石(レプリカ) 

 

(続く)