纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(39)

アマ(メ)ノトリフネ」の神は、「鳥之石楠船神」(とりのいわくすふねのかみ)と言われている神で、古事記の「伊邪那岐」之神と「伊邪那美」之神が生んだ35柱の神々の中の一柱の神様です。 

 

鳥が飛ぶように早い、固い楠材でつくった船の神で、神の乗る船をつかさどる神、或いは船そのものだと、その書のP86~87には書かれているが、この船の神はかなりの活躍をした神で、「国譲り」の際には武御雷神・タケミカヅチの神に随行し国譲りを成功させている。 

 

縄文・弥生時代には、船は主要な唯一の移動手段だったのです。 

 

縄文時代の中期には、伊豆諸島の神津島から黒曜石が船で盛んに伊豆半島まで運ばれていた。それほど船は頻繁に使われていたものである。 

 

と言うよりもホモ・サピエンス達が旧石器時代に日本列島に渡ってきたときには、海を渡って来たのである。だから、当然航海術を、彼らはわきまえていたことになる。当然それよりも後の時代の縄文時代にも、縄文人たちは航海術をわきまえていたものである。 

 

この時代、縄文や弥生の時代には、船や航海をつかさどる神様が居て当然なのである。 

 

詳しくは小生のブログ「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(51) (59)」 (2020.10.06、10.16)などを参照されるとよい。 

 

 

その小生のブログの(59)2020.10.16)の一節を次に掲載しておく。 

 

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さて10月06日のNO.51で、ホモ・サピエンスの日本への渡航ルートを次のように示している。

(1) 対馬ルート朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

(3) 北海道ルートシベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。


このうち古本州島に直接渡ってくるルートは、(1)の対馬ルートである。

しかも古本州島には、3万8000年~3万年前の遺跡442も存在していると記録されていることからも、日本列島への最初の渡来ルートはこの(1) 対馬ルートであろう。

しかもこの3万8000年前の対馬の両側には、約40kmほどの海が存在していた。このことは既に述べておいたが、そのため、日本列島へ渡ってくるには、船が必要だったことになる。船と言っても一人や二人乗りの簡単なものではなさそうだ。当時としてはそれなりに、民族の大移動だったのではないのかな。

彼らは優秀な航海者だった訳だ。

伊豆七島神津島と当時は陸続きであった恩馳(おんばせ)島から、黒曜石を調達していたことが知られている。

3万8000年~3万7000年前の静岡県井出丸山遺跡、からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。この事からも彼らが、後期旧石器時代から、優秀な航海者であったことが分かる。この神津島(恩馳島)産の黒曜石は、東京都や神奈川県の遺跡からも数多く出土していると言う(P139)。
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(続く)