纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(40)

邇邇芸命たちは、次のようにして海にこぎ出でていったものである。 

 

『彼ここに天の日子番(ホ)の邇邇芸命、天の石位(イハクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、陵威(イツノ、勢いよく)道(チ)別(ワ)き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に天降りましき。』 

 

 

海の浮橋を渡ると、浮島があり、そこにまっすぐに立って行って」そして 

天の八重多那雲を押し分けて、」とは、「押し寄せる数々の波を乗り越えて 

 

そして、猿田彦を水先案内人として、関東・鹿島を船で発ち、「陵威(イツノ)道(チ)別(ワ)き道別きて、」 勢いよく海の道を踏み分けて進み)太平洋沿岸を陸伝い、島伝いに西に進み、猿田彦の本拠地の伊勢を経由して、九州に上陸することになる。 

 

猿田彦は伊勢で分れたことになっているようだが、邇邇芸命の一行は九州の「鹿児島」に上陸する。上陸したところは、錦江湾(鹿児島湾)の突き当り、霧島市の西に隣接する「天降り川」に船を乗り入れて上陸した、とその書のP91には書かれている。 

 

鹿島・鹿児島といい、天降り川と言い、しかも鹿児島には「諏訪神社」が多いことからも、邇邇芸命一行の鹿児島上陸の証拠と言える。「諏訪神社」は「国譲り」で武御雷タケミカヅチ)に降参した大国主命の子・タケミナカタを祀る神社で、鹿児島の地も(出雲同様に)邇邇芸命の配下になったことを示すものであろう(P92)。 

 

邇邇芸命の一行は相当の大軍事船団であった。先にも紹介した五部族のお供を従え、天の忍日の命と天つ久米の命と言う武神を先頭に、「くじふる峰に」天降りましき、と言うことになる。天忍日命大伴氏天久米命久米氏となり、いずれも大和政権の軍事を司ることになる一族である。 

 

また香取神宮の「香取」は、日本書紀では国譲りの段で、「楫取」(かじとり)と記されている、とその書のP114には書かれているように、船と大いに関係があり、「息栖神社イキス」の祭神は「アマノトリフネ」と言う船の神様なのだ、とその書のP86~87には書かれているように、「天孫降臨」とは高天原(鹿島浦近辺)から鹿児島への大航海であったとしても間違いがないものである。 

 

事実、香取神宮にほど近い縄文遺跡の栗山川流域遺跡群から、同時代比較で倍の規模を持つ全長7.45mのムクノキ製の丸木船が出土しているのである(P88~89)。 

 

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多古町ウォーキング 

 

昨日は大雪予報が出ていましたが、この地域では雪は降らず雨で終わった一日でした。今日は一転暖かい日になり、たまには違うところでと、二人で多古町ウォーキングをしてきました。
車で15分ぐらいの多古町にある道の駅多古に車を置いて、そばを流れる栗山川沿いの遊歩道からスタートしました。 

 

川沿いからたんぼ道へ、そして町の中心区域にあるコミュニテイプラザ内で展示されている「栗山川流域遺跡群出土丸木舟」を見てきました。約5500年前(縄文時代前期末)にこの地域で出土したこの丸木舟は、全長7m45cm 幅64cm~75cm 深さ30cmもあり、ほぼそのままの形で出土した貴重なものだそうです。
丸木舟としては最も古いランクに入るようですが、この丸木舟で縄文人が何人も乗って櫂で漕ぎ漁をしていた様子を想像すると、そんな時代にタイムスリップしてみたくなります。
遺跡の勉強もしながら、又道の駅多古まで戻った約1時間半の多古町ウォーキングでした。 

 

私の一年365日』 より、借用した。 

私の一年365日: 多古町ウォーキング
(https://voxy4wd.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html) 

(続く)