纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(41)

猿田彦天孫降臨を導いているが、「国譲り」でもフツヌシを案内していることから、フツヌシと猿田彦は緊密に関係し「息栖神社」に祀られている神は猿田彦の家系であろうとしても辻褄が合うものである(P114)。 

 

このようにして、無事に鹿児島の霧島近辺に上陸した邇邇芸命の一行は、 

 

ここに詔(ノ)りたまはく、「此地は空国(カラクニ)に向ひ笠沙の御崎にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照国なり。かれ此地いと吉き地」と詔りたまひて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷ぎ(千木の事)高しりてましましき。 

 

ここに仰せになるには、「ここは痩せた所なので更に笠沙の岬まで来た。ここは朝日も夕日もよく照るところで、よい所だ」と仰せになり、地に石の土台を作り立派な柱を立て千木を高く上げて宮殿を建てた。 

 

 

と言うことで、邇邇芸命は、高千穂から笠沙の御崎まで来て、宮殿を建てて暮らすことになる。 

 

笠沙の御崎は、8/24のNO.37の地図を参照されんことを。 

 

 

常陸の国とは、「日立ち」つまり「日が上がる」ところを意味する「常世の国」と言われていることと、「日の昇る方向」東方に何か理想郷があると考えられていたことと大いに関係がある。(小生の感覚では)自分たちが元居たところこそが常陸の国にあったのではあるが、そのことを忘れてしまうほど、それほど長い間、邇邇芸命達は薩摩半島の笠沙の御崎で暮らすことになる。 

 

それほど長い間とは、常陸の国から来たにも関わらず、そのことを忘れてしまい、自分たちのいた国が「常世の国」と言われる日が昇る理想の国と考えられてしまうほどの長い期間、笠沙の御崎に居たと言うこと。 

 

神倭伊波礼𨫤古命(かむやまとひわれひこのみこと)の誕生まで四世代となるわけで、天孫は、その間笠沙の御崎で力を蓄えられていたことになる。 

(𨫤吡は当て字で、正しくは口へんは田である。 

 

さて、天津𨫤日高日子番能邇邇藝能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)は笠沙の御崎で、美しい娘と出会い名を尋ねると、「大山津見神」の娘で「木花之佐久夜毘売」(このはなのさくやひめ)と答える。 

 

大山津見神」はイザナギイザナミが神生みで最初に生んだ十神の末の男女が生んだ山の神であり、高天原系の正当な家系・血統であることを示すことになる。 

 

ニニギノミコトは大山津見に娘との結婚を申し込むと、大山津見は喜んで姉の「石長比売」(いわながひめ)と共に、たくさんの献上品を添えて送ってきたが、姉の石長比売はたいへん醜かったために、送り返してしまう。 

 

大山津見はたいへん恥に思って、次のように伝えます。 

 

「石長比売をお使いになれば、天の神の御子はたいへん長寿に栄えるでしょう。木花之佐久夜毘売一人であれば、天の神の御子の寿命は木の花のようにもろくなるでしょう。」 

 

と言うことで、天皇の寿命は短く神の存在から、普通の人間と同じになったことを示すことになる。 

 

この逸話は、天孫降臨の後の時代が、高天原天津神が、葦原の中つ国の国津神としての存在に移っていったこと、そういう時代になっていったことを示しているものである、とその書のP142には書かれている。 

 

そして木花之佐久夜毘売は一夜で妊娠したので、ニニギノミコトは「(自分の子ではなくて)国つ神の子ではないか」と疑う。そのため木花之佐久夜毘売は次のような手を打つことになる。 

 

「もし国つ神の子であれば無事ではないでしょう。天の神の子であれば、無事でありましょう。」と言って、戸口のない粘土で塗り塞いだ家にこもり、火をつけて出産する。 

 

火の中でも子は無事に生まれ 

 

長男が 火照命(ホデリ)海佐知毘古(うみさちびこ)、海幸彦 

次男が 火須勢里(ホスセリ) 

三男が 火遠里命(ホオリ)・山佐知毘古(やまさちびこ)、山幸彦 

    またの名を天津日高彦穂穂出見尊(あまつひだかひこほほでみ) 

 

三つ柱の子が生まれるのであるが、以後次男のホスセリは何も語られない。 

以後の話は長男の火照命(ホデリ)と三男の火遠里命(ホオリ)の話となってゆく。有名な海彦・山彦の物語である。 

(続く)