纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(48)

さて五穀を持って出雲にやってきたスサノオは、出雲の国の肥の川の鳥髪というところに降りた、と先の書には書かれている(P126)。 

 

肥の川とは、(多分)現在の「斐伊川」の事であろう。この川は、宍道湖にそそいでいる。 

 

 

肥の川の鳥髪とは、斐伊川の河口近くにあった地域であろう。するとその時に箸が流れてくるのを見つけたので、スサノオは上流を目指してゆくと、「老人夫婦と娘」が悲しんでいるところに出くわす。 

 

事情を聴くと、「高志八俣遠呂智コシノヤマタノオロチが年ごとにやってきて、私たちの娘を喰ってしまうのです。娘たちはもとは八人いたのてすが、この娘が最後の一人となってしまいました。」と泣いていたのであった。 

 

この老夫婦は大山津見神の子で、足名椎アシナヅチ、妻が手名椎テナヅチ、娘は「櫛名田比売クシナダヒメ」と言った。 

 

この夫婦は手や足を使って働く神であろう、とこの書は述べている。 

「アシ(足)ナ(接辞で親しみを意味する)ツ(~の)チ(霊力のあること、雷イカ)」と言うことで、足の霊力、手の霊力を意味し、「足や手を使って働く神」の意味だと言っている(P130)。 

 

即ち、稲田などで働く農業の神を意味するものであり、クシナダヒメとは絶妙なコンビなのである。 

 

ここでスサノオが五穀の種を持って、出雲へ来た甲斐がある、というものである。 

 

さてそこで、スサノオクシナダヒメを妻にすることを条件に、八俣遠呂智を退治することになった。 

 

先ず強い酒(八塩折の酒)を作らせ、更に八つの桟敷を作り、そこに八塩折の酒樽(酒船)を置き待ち伏せをした。 

 

轟く雷のように八つの頭と八つの尻尾をくねらせながらやって来た八俣遠呂智は、早速八つの頭を酒樽に入れ八塩折の酒を飲み干して、酔い潰れてしまった。 

 

ここぞとばかりに、建速スサノオは腰に佩(ハ)いた十挙トツカの剣ツルギを抜き、八俣遠呂智を切り刻む。そのため肥の河は真っ赤に染まった、と言われている。 

 

そして尻尾を切った時、御刀の刃がかけてしまった。尻尾を切り裂くと都牟刈(つむがり)の太刀が出てきた。 

 

ツムガリの太刀とは、摘む、刈ると言うことで非常に鋭い太刀という意味だと 

https://ja.wikipedia.org/wiki/天叢雲剣」には書かれているが、スサノオの御刀の刃が欠けてしまったということは、これは鉄の剣ではなかったかな、と小生は考えている。そしてスサノオ十挙の剣は多分銅剣なのであろうか、興味のあるところである。 

 

この妖しい剣は、天照大神に献上することになる。これが『草那藝の太刀』 (くさなぎたち、草薙剣)である。今現在は、『三種の神器』のひとつとして、熱田神宮に祀られている。 

 

時代はもう少し新しくなるが、3世紀末頃、景行天皇の御子の日本武尊が現在の焼津の地で、火攻めにあった時に持っている剣で周りの草をなぎ倒して火から無事脱出できたという故事から、その太刀に付けられた名称が「草薙剣」だと理解し、それまでの名前が「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だと記憶していたが、どうもそうでもないようだ。 

(続く)