爆笑問題・太田光と(旧)統一教会(13)

ここら辺事情を簡単に説明してみよう。 

 

当時(19世紀後半頃)の中国では、欧米のキリスト教宣教師たちは強引に布教を進めていたため、一般民衆は宣教師やその信者たちとは対立していた。これを「仇教事件」と言うが、1857年~1860年に起こった「アロー号事件(戦争)」(英仏連合軍と清国との争い)の結果、清国はイギリスに九龍半島を割譲させられ布教地域も拡大し、調停に入ったロシアは強引に沿海州を割譲させウラジオストクを建設した(1860年北京条約)。 

 

以後簡単に箇条書きで、その事件の進行を眺めてみよう。 

 

・1857年 ~1860年、「アロー号事件(戦争)ロシア沿海州を獲得 

・1898年3月 27日に露清「旅順大連租借条約」、遼東半島を25年間租借。 

  1903年7月 東清鉄道本線全線開通、 

・ 1900年5月 義和団の乱・北京を占拠 

・ 1900年6月 20日より8カ国連合軍が北京籠城55日 

      日25英82独51仏78米56伊42墺33露51、護衛兵全418名。 

           日本8千人、ロシアを主に軍隊を派遣、混成軍総数2万人。 

・ 1900年7月 義和団は露のブラゴヴェシチェンスク(海欄泡)占拠 

        露コサック兵は義和団や居住する中国人3千人を虐殺し 

        更に満州を占領してしまう。ロシアの南下政策 

・ 1900年8月 15日、8カ国連合軍北京を攻略。6/20~8/14京の55日 

        これを「北清事変」(義和団の乱)と言う。 

        日本軍の福島安正少将、柴五郎砲兵中佐など大活躍。 

・ 1900年11月 第2次露清密約。満州に軍隊駐留、行政権も獲得 

・ 1902年1/30日 日英同盟調印。共同でロシアに対処。 

1903年4月 「満州還付の露清条約」に反して、軍隊居座り更に増強。 

1903年8月 日本「満韓交換論」(満・露、韓・日)提案するもダメ。 

1903年8~9月 露、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とすると提案。 

         即ち、ロシアが管理するということ。南半分は日露で管理。 

        当然日本は受け入れられない提案である。 

1903年1月 東清鉄道支線完成、ハルピン-大連・旅順間  

     7月  東清鉄道本線完成、満州里・ウラジオストク 

1904年2月 日本、ロシアと国交断絶。 

・ 1904年9月 シベリア鉄道全線開通 

 

 

欧米列強の強引な布教活動の結果、一般民衆との摩擦が拡大していった。 

各地で宣教師たちが攻撃され殺された、仇教事件である。 

その最たる事件が「アロー号事件」であった。イギリス船籍と言われているアロー号を清国政府が臨検・中国船員を密輸の疑いで逮捕したことにより、英仏か(英国国旗を引きずり降ろしたとの口実で)戦端を開いたのがアロー号戦争である。これを調停したロシアが漁夫の利で、清国より強引に沿海州を割譲させた。 

 

このことから、ロシアはかねてより目をつけていた満州を占領し、露清密約を結び満州を我が物にして軍事基地を作り、行政権も握っていった。 

 

そして朝鮮半島にその手を伸ばしてきたのである。 

 

簡単に言うと、 

 

朝鮮半島の39度線以北はロシアが管理するので、それ以南を露日で管理しよう、と言うものであった。 

 

これではやがては強大な軍事力を持つロシアに、日本列島は蹂躙されてしまうと、日本の危機感は頂点に達したのである。 

 

英国自国の権益が損なわれる恐れがあり日本と英国は日英同盟締結。 

そして向後の憂いをなくして、日本はロシアに宣戦を布告したのてある。 

小国日本の一大博打であった。 

 

ある意味、「伸るか反るか」の大博打であったが、明治政府はそこは周到に大英帝国と「日英同盟」を結び、「日露戦争」を始めるのである。 

 

詳しくは当ブログの「日韓併合100年(51~)」(2010,12,30~)を参照願う。 

(続く)