邪馬台国とはなんぞや?(68)

もう一つ指摘しておきたいことがある。

 

それは魏志倭人伝が朝鮮、特に馬韓国ではどのように教えられているか、と言う事である。

 

それは、別冊宝島22832015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏)」に、書かれていた。それを紹介しよう。

 

韓国の民族派の運営するサイトに「コリアン・スピリッツ」と言うものがあるそうな。

 

そこには、「朴ソンス名誉教授の歴史エッセイ」というシリーズある。そのシリーズ第23話(2014.10.26)には、驚くべきことが書かれていると言う。

 

先ず、タイトルからして、奇妙奇天烈だ、「百済が日本に国を建てた」。

 

これだけでもKorean朝鮮人の痴呆さ加減が、判ると言うものである。馬鹿でないかい、朝鮮人は。と言った表現では物足らない。馬鹿で頓馬で、痴呆で気違いだ、朝鮮人は。

 

 

室谷氏の和訳が載っているので、それを紹介しよう。驚くと言うよりも呆れてしまう、

 

 

日本古代史は中国の史書、「魏志倭人伝に至って初めて出てくる。それを見れば、倭人がどこにいたかというと、韓半島の「帯方郡(今の黄海道)から南へ降りて行けば韓国があって・・・。また降りながら海を東南側に行けば狗邪韓国に出る。倭人はすぐそちらに住む」としている。

 

つまり、韓半島南側に韓国があり、また海を渡って日本の土地には、もう一つの韓国である狗邪韓国があると言う事だ。

 

すなわち、日本には倭人が暮らしているが、彼らを支配するのは狗邪韓国と言う国だと言うのだ。つまり、日本には百済の分国すなわち植民地があったことを証言している。

 

 

我々は既に魏志倭人伝を、詳細に勉強して知っている。決してこんなことは書いていない。

 

何処をどう読めばこんな文章になるのであろうか。全くの偽造である。誤訳などではない。意識的にこの痴呆名誉教授は、馬鹿話を作っているのだ。馬鹿話はさらに続く。

 

 

日本列島に渡った韓国人は百済人ばかりではなく、加耶新羅高句麗の人々がいた。私たちの『三国史記』にはそのような事実が記録されていないが、日本には記録はもちろん遺跡・遺物が数多い。日本のあちこちに国を建てた人々は韓国人だ。日本人はまだ野蛮人であり、国をどのように建てるかわからなかった。日本に国が建ったのは7世紀のことだった。

百済660年に唐・新羅連合軍の攻撃に敗れ滅びたのが、まさに7世紀だった。そのとき、多くの百済王族が船に乗って日本に渡っていったのは、そこが百済だったからだ・・・・・

 

 

こんな魏志倭人伝捏造・偽造した解釈を載せているのは、朴ソンスと言う人物であるが、この痴呆教授は一応大学を卒業していると言う。それもソウル大学史学科、高麗大学大学院史学研究科を卒業し、大学教授にまでなっているらしい。よっぽど馬韓国の大学のレベルは低いと言う事か。

 

朴ソンスはその後、政府機関の国史編纂委員会の委員に選ばれ、その委員会の編史室長まで歴任しているようだ。

 

こんな経歴を見れば、一応朴ソンスは、形の上では、韓国歴史学会の最高の権威者の一人であるようだ。

 

そんな歴史学の一応の権威者が、「日本には百済の植民地・狗邪韓国があり、その狗邪韓国が日本を支配していた」などと言いふらしていると言う事は、「原典を歪曲してデマ解説をしよう」とする意図が見え見えである。

 

一般的にはKorean民度は低い、と思っていても間違いがない。こんなトンでも解釈がまかり通っているからには、相当低い、というよりも、とっても低いと言う事であろう。

 

だからこんな偽造・捏造した解釈で、馬鹿なKoreanに虚偽の理論武装させようとしているのである。

 

馬鹿なコリアンは、”わが民族が日本列島に「国づくり」も含めた文明・文化を教えてやったのだ”と思い込んでいるのだ。

 

しかも馬鹿なコリアンでも、男子には兵役がある。そこでも初年兵教育の「国史」では、「古代韓文明は5大文明の一つで、・・・未開の倭奴(ウエノム)に、わが民族が文明を教えてやった・・・」と教えられる、という。

 

全く、馬鹿で頓馬で、痴呆で気違いだ、Koreanは。これでよくわかったことであろう。

 

 

東夷伝倭人

 

 

倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。 旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。

 

郡従()り倭に到る。海岸を循(めぐ)りて水行し、韓国を歴()て乍(ある)いは南し乍いは東し、其北岸、狗邪韓國に到ること七千余里

 

 

朝鮮半島・韓国の南部には、日本の領地・狗邪韓国があった。倭人が韓族を支配していた。だから任那・日本府が存在したのだ。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(67)

ちなみに「三韓征伐」と言われる所以は、新羅がすぐに降伏したので、残りの高句麗百済も相次いで日本の支配下にはいることになったことから、そう呼ばれている、とはWikipediaにも記載されていることである。しかし実際に戦闘があった相手は新羅だけだったので、新羅征伐と言われている。

 

さて日本書紀神功皇后の条皇紀201~269、西暦はAD356~AD389)には、魏志倭人伝のことが引用されていると言う。

 

(1) 景初三年六月(AD239)に、卑弥呼大夫難升米等帯方郡に遣わし、魏の洛陽まで朝貢している。翌年の正始元年(AD240)には、詔書印綬が魏から届けられている。

 

(2) 正始四年(AD243)には、倭王卑弥呼)から使者八人が、献上品を届けている。

 

(3) 晋の武帝の泰初二年(AD266)には、倭の女王壱与が何度も通訳を重ねて貢献した記している(晋の国の天子の言行などを記した起居注に)。

 

 

このように、

神功皇后の条(皇紀201~269、西暦はAD356~AD389

 

魏志倭人伝からの引用(AD239AD240AD243AD266

 

年次を比較してみると、魏志倭人伝の年次が、丁度日本書紀神功皇后の条の皇紀の年次と、マッチングしている。

 

神功皇后の条の年次は春秋年であるが、魏志倭人伝の年次は西暦ADである。だから、日本書紀の編著者は春秋年を意識していなかったことが、このことでわかる。

 

但し、日本書紀では単なる引用であることを示すように、文字の大きさを他より小さくしてある、と先の書273頁には書かれているので、日本書紀の編著者はこんなこともあったそうな、といったニュアンスで書き込んだのであろうとしている。

 

神功皇后が、ある時は卑弥呼である時は壱与であることは無いのであるから、そんなニュアンスで書き込んだものであろう、としても間違いはなかろう。

 

 

そして次には、宋書倭国伝に載るいわゆる「倭の五王」についても、先の書は、答えを出している。

 

細かいことは、先の書長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))を参照願いたいが、次のように結論付けている。

 

 

 

第十六代 仁徳天皇411~428) 高祖の永初二年、倭讃が貢物を修む

第十七代 履中天皇429~431

第十八代 反正天皇432~433) 讃死して弟珍立つ(シナ文献 年代不詳)

第十九代 允恭天皇434~454)  使いを遣わして奉献す 安東将軍となす

第二十代 安康天皇455~457) 世継ぎの 貢献す(年代不詳)

第二十一代 雄略天皇458~480) 世祖の大明六年 興を安東大将軍・倭国王とすべし 興死して弟武立つ・・・

 

 

この宋書に書かれている弟とか世継ぎのと言ったことは、全て正しく合致しているものである。

 

だから讃・珍・済・興・武の一字名の天皇は、上記のようになる。

 

ではなぜ一字の名前となっているかと言うと、「シナには外交文書を書き替える専門家がおり」彼らが書き替えたものであろう。というのも、「天皇」のの字は、「皇帝」にしか使ってはいけないしきたりがあったために、書き替えられていたものであろう、としている。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(66)

日本書記神功皇后の条に書かれていることを、簡単に箇条書きにしてみよう。

(先の書265頁、および、神功皇后の摂政(2)百済新羅外交http://www.kunakoku.info/sub-07/sub-07-02.html#text-top、を引用。

 

 

(1)摂政五年、

新羅王から朝貢新羅王は大和朝廷に人質となってなっている弟を帰国させる様、ウソの理由で神功皇后に嘆願したため、それを許す。対馬まで来た時に、新羅の使者に騙されて、葛城襲津彦は人質を逃がしてしまう。葛城襲津彦は使者を捕らえて殺し、新羅に渡り城を落とし漢人を連れて帰る。「三国史記新羅本記」にも書かれているとと言う。

 

(2)摂政四十六年

百済の使いが、日本と親交のある加羅を訪ねて日本への朝貢を申し出る。以後百済朝貢が始まる。肖古王の時代か。

 

(3)摂政四十七年、

百済王の遣使が新羅の調使と共に来朝する。新羅の貢物は豪華で、百済の貢物は卑賤であった。百済の使いが新羅に襲われて、豪華な貢物を奪われてしまった。百済の使者は脅かされて、新羅の卑賤な貢物を自国の貢物とさせられた。神功皇后は、新羅懲罰の派兵を行った。

 

(4)摂政四十九年、

神功皇后は、荒田別(わけ)と曽我別を将軍とする軍勢を新羅に派遣、百済兵と共に新羅を討つ

加羅など七国を回復し、済州島百済に与えた。百済王は感謝して、毎年春秋に朝貢することを約束する。

 

(5)摂政五十年、

新羅討伐の荒田別(わけ)と曽我別らが帰国する。百済王の使いが来朝する。皇后は加耶の多沙城(たさのさし)を与える。

 

(6)摂政五十一年、

百済朝貢してくる。神功皇后と皇太子及び健(武)内宿禰は喜び、帰国する百済の使いとともに千熊長彦を百済に派遣し、日本と百済は堅い同盟で結ばれることにる。

 

(7)摂政五十二年、369

帰国する千熊長彦と共に百済の使者が、七枝刀ななつさやのたち)、七子鏡をはじめ、数々の宝物を献上した。その七枝刀は奈良県天理市石上神宮につたわる。 七枝刀には「泰和四年六月十一日」の金象嵌が刻まれていた。369年である。

この年にも、大和朝廷は軍を派遣し新羅を破り、加羅任那に日本府を置いている。

 

(8)摂政五十五年、375

百済の肖古王薨去する。皇子の貴須が王となる。

 

(9)摂政六十二年、

新羅朝貢しなかった。葛城襲津彦武内宿禰の子)を派遣するが、新羅のハニートラップに嵌まり、加羅国を攻撃してしまう。応神天皇は兵を派遣し、襲津彦を攻め加羅を取り戻す。襲津彦は自殺する。

 

(10)献女外交(貢女)、

朝鮮・新羅は統一新羅となっても、中国王朝(唐、宋、元、明、清)相手に献女外交を続ける。

 

 

なお、ここらへんの事情(大和朝廷の朝鮮進出)は、高句麗好太王414年に建てた「広開土王碑」に刻まれている。

 

 

広開土王碑の日本国の進出を記述した辛卯年条(391年)の解釈を次に記す。

 

そもそも新羅百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済任那新羅を破り、臣民となしてしまった」(ウィキペディアより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91

 

また、この頃(369年から562年、Wikipediaによる)朝鮮半島南部先端に任那が存在していた。百済も含め、倭国の支配地域とされている。そしてこの朝鮮半島南西部地域には13基の前方後円墳が発見されており、更には糸魚川周辺からしか産出されないヒスイの勾玉が同時に多数産出されていることからも倭(大和)国の勢力が確実に及んでいたことも事実であろう。

 

391年とは、応神天皇の御代である。応神七年の条には、「高麗人、百済人、任那人、新羅人等が来朝し、彼らを使って池を作らせた」とある。この頃から、百済任那新羅は日本の臣民、即ち、分国の民となっていたことを、高句麗が忌々し気に刻んでいたのだった、とは先の書282頁の記載である。

 

それにしても、古代より朝鮮民族と言うのは、嘘つきで信義にもとる民族であることがよくわかる。丁度、今の文在寅の嘘つきと卑怯なところは、全く変わっていない、と言う事だ。まともにつき合うに足る人種ではない。野蛮人よりも性質が悪い、朝鮮人

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(65)

次に進む前にもう一つ鉄剣の話を追加しておく。

 

また、熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳からも、稲荷山古墳出土の剣と同時期に作られたと考えられている銀象嵌銘文75文字が刻まれた大刀が出土している。

 

そこには次のような文が刻まれていると言う。

 

洋泉社MOOKの「歴史REAL 古代史の謎・ここまで解明された「空白の時代」2015.4.10発行」の59頁の現代語訳を記す。

 

 

ワカタケル大王の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。(この刀は)八月に大鉄釜で丹念に作られた、めでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿で、子孫まで栄え、治めることがうまくいく。大刀をつくったのは伊太●(欠失)で、銘文を書いたのは張安である。

 

 

こちらの大刀にも「ワカタケル大王」の名が刻まれている。

 

「ワカタケル大王」とは第二十一代雄略天皇だとされているが、日本列島の東西の大型の前方後円墳から、「ワカタケル大王」の名や当時の役所の役職名などを記した刀剣が出土したと言う事は、大和朝廷の支配が列島全域に及んでいたことを示すことになり、大和朝廷自体がしっかりと全国を統治していたことを示すことと考えても間違いではない、という意味のことがその「歴史REAL」には記されせている。

 

 

しかしながら大和朝廷の全国統一も、一足飛びに進んだわけではない。

 

十四代仲哀天皇と第十五代応神天皇の間に、34年間ほどの神功皇后が摂政を務められた時代があった。

 

 

10. 崇神天皇AD208~AD241

11. 垂仁天皇AD242~AD290
12.
景行天皇AD291~AD320
13.
成務天皇AD321~AD350

14. 仲哀天皇AD351~AD355

・・・神功皇后AD356~AD389) 摂政期間

15. 応神天皇AD390~AD410

 

 

神功皇后と言えば三韓征伐が有名であるが、何故仲哀天皇の后の「神功皇后」が新羅の征伐に出向いたのが、という疑問が残るのである。

 

それと言うのも、話は仲哀天皇熊襲征伐に始まる。

 

日本書記によれば、(別冊宝島2429、 「古事記」と「日本書紀」神話の謎、2016.2.16 発行によると)

 

仲哀天皇熊襲征伐のために、后である神功皇后と共に、九州の筑紫の橿日宮(かしひのみや、香椎宮)に入る。そして神託を求めて天皇は琴を弾くと、皇后が神懸かりして、「西の方に国がある。その国には金銀をはじめとする財宝が唸っている。今、私はそなたたちにその国を服従させてあげよう」と告げた。

 

新羅熊襲と結託して、日本に侵略しようとしていたので、熊襲を討つためには新羅を討つことが急務であった。そのためこのお告げを告げられた天皇は、高見に登って西を見渡したがそのような国は見えなかった。そのため天皇はこの宗教的儀礼の琴弾を止めてしまった。

 

すると神の怒りを買い、仲哀天皇は神の天罰で身罷られてしまった。そのため神功皇后と建内宿禰は、再三再四神託を求め、新羅遠征細かに指示を仰ぎ、戦の準備を整えて数万の軍勢を指揮して朝鮮半島に向かう。

 

この時神功皇后は臨月を迎えていたため、「鎮懐石」を腰に挟んで出産を押さえていた。神功皇后の船団は順風満帆で進み、新羅の内部まで進むことが出来た。

 

この有様を見た新羅王は恐れをなしてすぐさま降伏して、以後は日本の天皇服従して、毎年、沢山の貢物を献上することを約束する。神功皇后は「降伏したものは殺してはならぬ」と命じて、新羅王を赦免した。しかし新羅王のこの降伏は、偽りであった。

 

朝鮮征伐後、凱旋した筑紫で皇子をお産みになられた。後の第十五代応神天皇である。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(64)

先の書の252頁の訳文を次に記す。

 

 

亥年七月中記す、私こと乎獲居臣おわけのおみの上祖の名は意富比垝 おおひこ であり、その児の名はカタリノ宿禰、その児の名はテカヨリ別、その児の名はタカハシ別、その児の名はタサキ別、その児の名はハヒテ

 

「その児の名はカサハヨ、その児の名はオワケノ臣。世世杖刀人の頭となり、勤め奉り今日に至る。ワカタケル大王の寺、磯城の宮にあるとき、我天下を左治し、ここに此の百錬の太刀をつくらしめ、太刀を奉ったいわれを記すなり」

 

八代の系図が刻まれ、乎獲居臣の父祖とは第九代・開化天皇の実兄、第八代・孝元天皇の長男、

意富比垝(大彦)だった。開化、孝元天皇の実在が明らかになると同時に、日本書記の正しさがまた一つ証明されたことになる。

 

 

この概略の意味は、次の通り。

 

 

稲荷山鉄剣「オオヒコ」の衝撃!【1】
2017.08.9
 皇族

 

オオヒコの子孫のオワケノオミの一族は、先祖代々、杖や刀を製作管理する、
職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。



21雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、
私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。

 

https://kodaishi.net/person/royalty/oohiko

 

 

 

私ことオワケノ臣は、第八代孝元天皇の長男の意富比垝(大彦の末裔である。第九代開化天皇は、その意富比垝(大彦の弟である。我々一族は先祖代々、杖や刀を製作管理する、職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。

 

21雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。

 

 

と言ったところが、その言わんとするところの解釈なのである。

 

 

第八代孝元天皇--長男・意富比垝(大彦)--カタリノ宿禰--テカヨリ別--タカハシ別-

 

-タサキ別--ハヒテ--カサハヨ--乎獲居臣おわけのおみ(私)

 

と言う系図をこの鉄剣は示しているわけで、当然のことではあるが、第八代孝元天皇の実在を証明していることになり、意富比垝(大彦)の存在が証明されたことは、その父親が孝元天皇であることから孝元天皇の存在も実証されたことになり、同時に意富比垝(大彦)弟は第九代の開化天皇と言うことに繋がり、闕史ではなくなることの証明となろう。

 

ちなみに稲荷山鉄剣の銘文の「辛亥年」は471で、雄略天皇の御代(458~480年)にこの鉄剣は作られたことになる。

 

 

さて先の書255頁は、纏向遺跡のことを述べている。纏向遺跡は、垂仁天皇AD242~AD290の御代に作られたと言う。日本書紀の次の一文があるからだ。

 

 

日本書紀巻第六

活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

いくめいりびこいさちのすめらみこと

二年冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。

「二年冬十月さらに纏向に都をつくり珠城タマキ宮といった」

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html

 

 

垂仁天皇AD242~AD290の跡を継いだ第三子の景行天皇291~320年)も、纏向日代宮(ひしろのみや)で治天下(あめのしたしろしめ)したのである。

 

時代は、神武天皇から数えて第十一代目であられる垂仁天皇AD242~AD290の時代となっている。決して邪馬台国に関係のある国ではない。邪馬台国はあくまでも九州北部に存在した倭国連合である。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(63)

以後次のようにご皇室(天皇)の系図は続いてゆく。

()内は先の書によるが、即位年~崩御年を示し、即位年は原則前帝の崩御年の翌年とする。

 

 

1. 神武天皇BC70~BC33

2. 綏靖天皇BC32~BC15

3. 安寧天皇BC14~BC1

4. 懿徳天皇AD1~AD17

5. 孝昭天皇AD18~AD59

6. 孝安天皇AD60~AD110

7. 孝霊天皇AD111~AD148

8. 孝元天皇AD149~AD177

9. 開化天皇AD178~AD207

10. 崇神天皇AD208~AD241

11.垂仁天皇AD242~AD290
12.
景行天皇AD291~AD320
13.
成務天皇AD321~AD350

14.仲哀天皇AD351~AD355

 

 

先の表で判ることは、神武天皇綏靖天皇安寧天皇懿徳天皇と、4代にわたり大己貴神大物主神)の血筋は、全てご皇室に流れ込んていったことになり、他に漏れ出ることは無くなっていったことになる。

 

そして孝昭天皇は、尾張連の祖・奥津余曽(おきつよそ)の妹、世襲足媛(よそたらしひめ)を正妃に迎えている。

 

このことは、ご皇室が尾張の豪族とも深い絆を有しており、敵対する理由は何もないことになる。

 

と言う事は、一説には尾張を狗奴国に比定する論もあるが、間違いであろう。

 

そしてご皇室は万世一系と言われているように、代々子孫が連綿と続いておられるのであるから、邪馬台国卑弥呼のように子孫がなかったと言うことは無く、大和に邪馬台国があったなどと言う事も、明白な間違い事項である。もちろん大和と尾張の狗奴国が争うなんぞと言う事も、架空の話となるのである。

 

邪馬台国は、この大和朝廷のように強固な血縁関係を築くことが出来なかったことで、衰退していったのではないかと、先の書は250頁で述べている。

 

 

もう一つ闕史八代の天皇が、欠史ではないことを証明しよう。

 

これも先の書の252頁以降で述べられていることである。

 

それは埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群の中で最古級の大型古墳・稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣である。

 

そこには、表57文字、裏58文字が刻まれていたのである。

 

その文字の中に、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王、雄略天皇)と言う文字が刻まれていたのであるが、問題はそこに、開化天皇孝元天皇に言及されることが刻まれていたことである。

 

 

銘文の内容[編集]

 

(表)

亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 

 

書かれている文字に読点を打って解釈すると、

             「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺[6]、シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」



特色[編集]

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3


(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(62)

先の2018.10.17NO.47でお示しした系図を次に示す。

 

色々な系図が言われているが、日本書記によれば、綏靖天皇は、大物主系の事代主の娘で媛蹈鞴五十鈴媛の妹の五十鈴依媛を正妃に迎えたことになる。

 

このことにより綏靖天皇は、大神神社の神の子と摂津の製鉄集団の血を一手に受け継いだことになる。

 

そして大神神社の血統がすべて皇室に流れ込んだことを意味する。大神神社の血統が二つにならなかったことで、鉄の民と大神神社の神の系統が、全て皇室に統一されたことになる。このことは大和・日本を統一してゆくことには、誠に好都合な事であった。

 

 

古事記では、

 

大和奈良の磯城郡県主の祖、河俣毘売が、綏靖天皇の正妃としているので、五十鈴依媛はそことも関係があったのではないのかな、とも先の書234頁には記載している。そんなことであろう。

 

 

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そして五十鈴依姫がお産みになった師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)が、安寧天皇である。磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)が、日本書紀の記述である。

 

そして上図の日本書紀によれば、安寧天皇は事代主の子の鴨王の娘を后に迎えている。先の書の238頁では、事代主の孫(鴨王の女むすめ)を皇后に迎え、更に大己貴神の血統が皇室に流れ込んだことになる、と記している。

 

そして次の懿徳天皇は、磯城の県主の娘(ふとまわわかひめ)をめとり、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと、孝昭天皇)と多芸志比古命(たぎしひこのみこと)の二柱を得る。

 

多芸志比古命は大阪府泉北・泉南但馬国の竹別け、葦井の稲置(いなき)の祖先となっている。このようにして、ご皇室は、地元の大豪族との絆を更に深めていった。

 

このように闕史八代と言われている天皇は、各地の豪族の娘をめとり、皇子、皇女たちも、各地の豪族たちと姻戚関係を結び、それぞれの各氏族達の祖となっていった。

 

 

闕史八代とは、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までの八代を言うが、記紀にはこの時代の出来事が具体的に書かれていないことを理由に、闕史八代(欠史)とリベラルな学者・文化人は呼んでいるが、これは大いなる間違いである。

 

ヤマトの橿原に即位した神武天皇はじめ闕史八代と言われている天皇とご皇室は、武力によるものでなく、血縁関係を深めることで大和の各豪族をはじめ、各地の豪族たちと宥和し服属させていったことを、示しているものである。

 

そのためこの間は記紀に書くべき出来事・戦争などがなかったと言う事で、すこぶる平和であったから、それほど書くべき事柄がなかったということである。

 

記紀と言う原本を忠実に読み理解すれば、このことは簡単にわかることである、と長浜浩明氏は彼らに警告している。

(続く)