2010-01-01から1年間の記事一覧

日韓併合100年(51)

特にロシアは当初は旅順と言う点であったものを、鉄道を敷き自己の権益を線にまで伸ばし、そして今回は満州全体と言う面へと拡大して行ったのである。その面が朝鮮へ、そして日本本土へと拡大しようとしているのである。このロシアの満州植民地化は、日本の…

日韓併合100年(50)

この時の明治政府は、この結果が極東に及ぶことを明確に把握できていたのであろうか。これが現代の出来事であれば、情報通信が発達し国際関係が緊密化しているので、簡単に把握出来る事であり、また明確に把握しなければならないことである。しかし、今の民…

日韓併合100年(49)

さて話を北京議定書に戻そう。この北清事変で次の平和への脅威が発生している。それはロシアによる満州の占領と言うモラルなき軍事行動である。ロシアは不凍港を求めて遼東半島へ進出した。三国干渉で旅順を日本から清国へ返還させたと思ったら、今度はロ助…

日韓併合100年(48)

2009/2/25の当ブログ「バラク・フセイン・オバマ大統領(25)」を参照願いたい。そこには、1942年に米政府は、戦後の日本を2度と独立した外交政策が実行できない国にする。日本から、永久に自主防衛能力を剥奪しておくことを決めていた、・・・と言うこと…

日韓併合100年(47)

対支文化事業の具体的内容は中国朝野の意見も取り入れながら策定された。まず北京での図書館と人文科学研究所、そして上海での自然科学研究所の設置である。そして余力ある場合は各地に博物館や医科大学、病院を建てることになった。これらの意義はきわめて…

日韓併合100年(46)

北京が陥落すると清朝は態度を180度転換し、8月20日には義和団を「挙匪」または「団匪」と呼び反乱軍とした。そのため「扶清滅洋」を旗印にしていた「義和団」は、清朝に失望し「掃清滅洋」に変えざるを得なかった。 1900年7月には義和団はロシア…

日韓併合100年(45)

それでもようやく8月14日、連合軍は北京攻略を開始した。北京軍は、先の天津攻略で多数が失われ、戦意も萎えていたため翌日の8月15日には北京は陥落している。それからおよそ一年間の北京占領体制が続くこととなる。1900年6月20日から8月14…

日韓併合100年(44)

山東省を追われた「義和団」は、失業者や難民を吸収して大部隊となり、外国人やキリスト教信者や外国関連施設を攻撃・破壊しながら、直隷省(北京と北京のある河北省)に侵入していった。更に「義和団」は「扶清滅洋」と言う清朝寄りのスローガンを掲げてい…

日韓併合100年(43)

しかし伊藤は次のように答えたと言う。 『変法を望むなら、まず尊大な中華思想を放棄することが先決である。この世に生を受けているものはみな平等であり、生まれながらの貴賎の違いはない。同様に国にも貴賎はない。まず外国を夷テキとして見ることは止めな…

日韓併合100年(42)

清国は日清戦争前から日本を征伐するために軍事的偵察を行っていたのである。1844年には、清国駐日大使館随員のヨウ文棟(ブントウ、ヨウは女へんに兆)は兵略書『日本地理兵要』を発表している。更には、江蘇按察使の応宝寺も、江蘇巡撫の張樹声に、日…

日韓併合100年(41)

韓国人の多くは『日本の影響が無くても朝鮮は自主近代化が可能であり、日本の侵略は近代化を阻害した』と言う。 しかしながら、韓国側が自主近代化の証拠と考えている「光武改革」についても日本では日清戦争に勝利した日本が着手した改革であると考えられて…

日韓併合100年(40)

高宗が皇帝となっても朝鮮は安定しなかった。一年後の1898年9月には高宗暗殺未遂事件が起こっているし、近代化への動きも守旧派による独立派への妨害が頻発し、議会政治の芽も蝕まれてしまう。皇帝は光武改革と言う近代化政策を推し進めるが、政治情勢…

日韓併合100年(39)

さてドイツは、1897年11月1日、山東省西部の巨野県でドイツ人宣教師が2人殺された。これを口実に「ドイツ人保護」名目で膠州湾を占領した。そして居座り膠州湾全体を99年間租借することで和解した。そしてドイツは膠州湾を開発し、小さな港町を一…

日韓併合100年(38)

そのため第一次大戦では日本は即座にドイツに宣戦を布告して、陸軍が青島(チンタオ)と膠州湾のドイツ租借地に攻め込んでいる。海軍は、ドイツ植民地の南洋諸島を攻略し占領している。 ちなみに第一次大戦は、独墺(オーストリアハンガリー)連合と仏露英の植民地争奪…

韓国併合100年(37)

正式にはこの条約が1895年(明治28年)5月8日に批准されて始めてその日から、戦闘が中止されるというものであった。下関条約が調印された4月17日はまだ(正式には)戦闘は終了していない状態なのである。そしてその批准も終わらない調印後一週間…

日韓併合100年(36)

下関条約の全十一条の概要を下記に示す。 第一条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし。 第二条 清国は次の土地の主権とその地方にある城塁…

日韓併合100年(35)

言うなれば、李鴻章の遭難事件の代償として休戦が成立したのである。そして引き続き講和交渉を開始する。日本側が提示した講和条約案の主要事項は次の通りであった。 (1)朝鮮の独立(2)遼東半島、澎湖列島、台湾の割地(3)賠償金3億両(4)新通商条約の締結 で…

日韓併合100年(34)

そしてこの直隷決戦への具体的な準備と台湾攻略は、下関での講和交渉の日本側の大きな切り札であった。 そして次の作戦として、陸海軍合同で台湾海峡の澎湖列島を占領する作戦も実行された。1895年3月23日、南方派遣艦隊混成支隊が澎湖列島に上陸を開…

日韓併合100年(33)

さしもの北洋艦隊はこの「威海衛の戦い」で、全滅した。定遠は沈没し、鎮遠は鹵獲され連合艦隊の二等戦艦として、日露戦争の黄海海戦(ロシア旅順艦隊を撃破)や旅順攻略戦やはたまた日本海海戦にも参加した。この辺の事情は、11/22のNO.26を参照…

日韓併合100年(32)

海城は蓋平と遼陽のほぼ中間地点に位置し、交通の要衝であり清国にとっても重要拠点であった。蓋平は営口から50km~60kmほど渤海の遼東湾沿いに南下した河口に位置する。海城の攻略は12月1日に第1軍の第3師団に命令が下され、酷寒の凍結した大…

日韓併合100年(31)

さて日清戦争はまだまだ続いている。 第2軍が花園口に上陸(10/21)して旅順に迫っている時、1894年10月24日第1軍は先遣部隊が鴨緑紅の渡河を開始し、10月25日早朝本隊も渡河を開始、敵砲台への攻撃を開始した。初めて清国の領土に攻め入った…

日韓併合100年(30)

アメリカの新聞に掲載された弁明は次のようなものであった。1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった。3. 住民は交戦前に逃亡していた。4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するように命令されてい…

日韓併合100年(29)

中国人の日本人に対するこのような残虐な行為は、この後何度も繰り返されている。 例えば小生のブログの'07.5.8の『中国の対日特殊工作(スパイ)』、'07.5.11の『通州事件』、更には'08.2.15の『中国・虚妄のプロパガンダ』にも概略が記されている。更には…

日韓併合100年(28)

旅順は天然の良好で清国屈指の軍港で北洋艦隊の母港でもあった。日清 戦争で日本に割譲されたものの、1895年4月23日にロシア、フラ ンス、ドイツの三国が「遼東半島は清国に返還すべし」との勧告によ り、清国に返還されている。これが三国干渉である…

日韓併合100年(27)

日本はなぜこれ程までして清国と戦ったのか。それは朝鮮のために戦ったのである。すべてが日本のためだけではなかったのだ。朝鮮が中国の千年属国のままであれば、当時の世界情勢からして中国(清国)は列強の餌食となり、千年属国の朝鮮はロシアか他の列強…

日韓併合100年(26)

大捷とは大勝利のこと、大勝のことである。 『日清戦争黄海海戦』http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.htmlによれば、旅順港に逃げ込んだ北洋艦隊は陸上から包囲されて威海衛に逃げ帰った。そして日本海軍の水雷艇攻撃と地上からの攻撃により全面…

日韓併合100年(25)

『どらぼた庵』http://kouzuke.s11.xrea.com/ というホームページに『日本のうた講座』というコンテンツがある。そこには「明治維新」「日清戦争」「日露戦争」に関する解説とそれらに関する『日本のうた』が紹介されている。そして「黄河の大捷」はラッパの…

日韓併合100年(24)

日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。と言うのも清国の北洋艦隊は持久戦を狙い戦力の温存をはかって、なかなか威海衛から黄海へ出てこなかったからだ。 威海衛は山東半島の先端に位置し、渤海海峡に面しており、丁汝昌率い…

日韓併合100年(23)

その内容は、小生の独断と偏見で以下に概略してみる。『朝鮮国の内乱はその内政に起因している。よってわが国は朝鮮の内政を改良してその根源を根絶させたい。それを実行するには朝鮮との関係が深い貴国(清国のこと)とわが国が共に協力する必要がある。こ…

日韓併合100年(22)

高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このことは、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。さればたと…