日韓併合100年(23)

その内容は、小生の独断と偏見で以下に概略してみる。

朝鮮国の内乱はその内政に起因している。よってわが国は朝鮮の内政を改良

してその根源を根絶させたい。それを実行するには朝鮮との関係が深い貴国

(清国のこと)とわが国が共に協力する必要がある。これを貴国に提案するも、

これを却下している。その代わりわが国の兵の撤退を促すだけであった。更に

英国公使が好意で両国意見が一致するように提案されても、それを意に介さず

にただわが国の撤兵を主張するのみ。貴国は事を好んでいると思わざるを得

ない。今後生ずる如何なることも、わが国の責任ではなく貴国の責任となろう。



これがいわゆる清国に対するわが国の最後通牒なのである。


そして7月19日には、次のように『
本日より五日間を以て正式案を出さなけれ

ば、どうなっても知らないぞ。且つ清国より増兵を派遣することは、日本国はこれ

威嚇の処置と看做す。』と伝えているので、その五日間とは7月19日から7月

24日までの間なので、7月25日の
高陞号の撃沈は紛れもなくすでに戦争中の

ことなのであった。ちなみに19日に日本大本営は連合艦隊を編成している。

(1)を参照のこと。


なお上記の
(18)項では『脅迫』としているが、(19)では『威嚇』と表現している。

この違いはどちらが正しいか分からないが、どちらにしても意味は同じである。



(20)
かくして日清戦争は開始されたのである。

  

ちなみに7月14日の日本の最後通牒に接した李鴻章牙山の清軍平壌

の海路撤退を命じたが、それが困難なため増援のために派遣した清国兵の一

部を乗せていたのが
高陞号であった。

この豊島沖海戦が海上での日清戦争の最初の主要な戦いであったが、その陸

戦は『
成歓の戦い』(せいかんのたたかい)であった。またの呼び名を牙山の

戦い
と言い、この牙山こそ高陞号が清国兵を運び込もうとした先なのでであった。


東学党の乱を鎮めるために朝鮮より援軍を求められた清国は、6月8日にはす

でに歩兵2,500名、山砲8門を牙山に上陸させ、総勢3,880名になっていた。

1894年7月28日牙山を攻めるべく出発した日本軍のうち、混成第9旅団歩

兵第21連隊は翌早朝3時20分に待ち伏せ攻撃を受け松崎直臣大尉他が戦

死し、日本軍最初の戦死者となる。ラッパ手木口小平二等卒も敵の銃弾に倒

れ、死んでもラッパを放さなかった(と言う逸話が伝えられている)。これは「
安城

の渡しの戦い
」である。清軍は戦闘には不利と判断し牙山より東北東18kmの

有利な
成歓駅周辺に主力部隊を配置していたが、日本軍は7月29日深夜左

右から攻撃を仕掛け午前8時過ぎには
敵拠点を制圧し、程なく牙山も占拠す

る。日本軍戦死者88人、清国軍死者500人前後と言う。



1894年8月
、清国軍は
平壌ピョンヤンに1万2千名の兵を終結させてい

た。そのため日本軍混成第9旅団は9月15日に攻撃を開始した。午後遅く平

壌城に白旗が上がる。しかし清国軍は休戦の前に、傷病兵を置き去りにして逃

亡してしまった。これが『
平壌の戦い』である。

(続く)