2011-05-01から1ヶ月間の記事一覧

日韓併合100年(83)

この間ロシア側でも大いなる間違いが発生していた。沈旦堡と間違えてその北に位置する小樹子を攻撃し占領し、沈旦堡攻略をグリッペンベルクに報告しこれを喜んだグリッペンベルクはクロパトキンに電話で報告している。しかしそれが間違いだと判ってからはロ…

日韓併合100年(82)

日本軍の布陣は、西(左翼)から秋山支隊、第2軍、第4軍、そして最右翼には沙河会戦で名を馳せた梅沢旅団の所属する第1軍が布陣していた。これに対するロシア軍は、西から第2軍、第3軍、第1軍が対峙している。秋山支隊はロシア軍の第2軍と対峙するこ…

日韓併合100年(81)

しかし日本軍の最大の危機は、この沙河会戦(1904/10/8~10/18)ではない。次に控える「黒溝台会戦」が日本軍の最大の危機であった。日露両軍は、お互いに補給を待つ間、沙河の両岸に穴倉に篭っている(沙河の対陣)。このとき、負け戦続きのロシア満州軍は、…

日韓併合100年(80)

日本軍は、第1軍が確保した安東(九連城など、今の丹東地区)から本渓胡に至る経路、ここには手押しの軽便鉄道を建設中であった。朝鮮半島では京釜線が1904/11に開通し、京城→義州を建設中であった。更には東清鉄道支線の大連→遼陽間に狭軌用に一本線路を19…

日韓併合100年(79)

この遼陽会戦までの進軍経路は、このURLの43頁を参照されるとよい。 http://books.google.co.jp/books?id=4uUJ3MjBNREC&pg=PA43&lpg=PA43&dq=%E6%91%A9%E5%A4%A9%E5%B6%BA&source=bl&ots=7uwADU1dHt&sig=qPdIlOuQnrzqMBKCzwVUWCQzFfU&hl=ja&ei=ZOnXTY_8NoWyv…

日韓併合100年(78)

第1軍主力は1904(M37)年3月11日に鎮南浦(平壌の玄関港)に上陸し北上、そして鴨緑江渡河作戦(1904/5/1)に勝利し、5月11日には鳳凰城を占領し、遼陽へ進むための補給を待つことになる。 第2軍は1904/5/5遼東半島に上陸し、1904/5/25~5/26に金…

日韓併合100年(77)

1905/1/1に旅順が陥落しているが、時間を遡って満州に目を向けよう。日本陸軍はその間でも、満州へ進軍している。1904/2/9仁川沖海戦、1904/2/24~5/3旅順口閉塞作戦などで当座のロシア海軍の脅威はなくなっている。第1軍先遣部隊は1904年2月16日仁川…

日韓併合100年(76)

そしてスターリンは旅順要塞はセヴァストボリ要塞を6つ合わせたほどの堅牢な要塞と評したほどである。司馬遼太郎は其の著作「坂の上の雲」で、乃木大将のことを、ただ闇雲に部下を死なせた無能な将軍として描いているが、これは大いなる間違いである(と思…

日韓併合100年(75)

西で2度負けたので(クリミア戦争、露土戦争)、今度は東の満州・朝鮮(日露戦争)に手を出してきたのである。 そして第2次世界大戦では、日ソ中立条約を破棄して、突如として満州、千島、樺太と攻め日本の北方四島を不法にも占領しているのである。現在は…

日韓併合100年(74)

この文部省唱歌は、まさに旅順開城の様子を忠実に表したものである。このURL↓には、良馬の写真もある。是非参照されるとよい。http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen3.htm 乃木大将の長男勝典は、1904/5/27、第2軍に所属し南山の戦いで戦死して…

日韓併合100年(73)

12月18日には東鶏冠山北堡塁が掘り進んだ坑道により爆破され、12月28日には二龍山 堡塁が、12月31日には 松樹山堡塁が爆破され、夫々陥落している。そしてついに、1905年1月1日午後には旅順市街を望む中核陣地である望台(185高地)を…

日韓併合100年(72)

そして1904年10月26日、28糎(榴弾)砲を使用して、第2回総攻撃が開始された。28糎砲の威力はすばらしく各堡塁に大損害を与えたが、ロシア側の反撃は激烈を極め、歩兵突撃を敢行するが主要目標とした松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3堡塁などの…

日韓併合100年(71)

そして旅順では、大孤山に観測所を設けた海軍陸戦重砲隊が旅順港を砲撃し、被弾した旅順艦隊はウラジオストクへ逃げようと8/10旅順港を出る。日本連合艦隊は黄海でこれを迎え撃ち、二度にわたり砲撃戦を行うも一隻も沈めることが出来ずに、日も暮れ見失い、…

日韓併合100年(70)

言っておくが、このロシアとの戦いはもちろん日本の独立のためではあるが、直接的には朝鮮のためであった。ロシアはバルカン半島で1877年4月~1878年3月の露土戦争で勝利して地中海への出口を確保出来たかに見えたが、1878/6/13~7/13、ベルリン会…

日韓併合100年(69)

さて、旅順港急襲は誠にもって不甲斐ない結果に終わってしまった。ロシア旅順艦隊は名前の通り、旅順港に引きこもってしまった。そのためバルチック艦隊とこの旅順艦隊とが合同されれば、日本の連合艦隊といえども勝ち目はない。日本はあせった。日本海での…

日韓併合100年(68)

さて、この「日韓併合100年」と言うテーマは、2011年2,3,4月と3ヵ月ほど中断していたが、そろそろ続きを始めようと思っている。 前回は1月31日のNO.67であった。 丁度カラカウア王がサンフランシスコの病院で多分毒殺されて、アメリカが「ベイオネッ…