2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

日韓併合100年(104)

6/10、小村外相は、大統領勧告と日本の受諾回答を発表させた。日本国民は「露国乞和」と解釈し舞い上がった。現実はそれほど甘くない。 6/11、長岡外史は早速陸海軍首脳にサガレン(樺太)攻略の緒準備に取り掛かったが、各首脳とも積極的推進には程遠く、四…

日韓併合100年(103)

ドイツはフランスが動き出したことに対抗心を燃やし、ロシア海軍が壊滅したことに安堵し、ロシア海軍の再建にドイツ経済が潤うことを願って、ロシアをある程度のレベルに置いておきたかっただけであった。そこには日本国の視点はいささかもなかった。 6/4、…

日韓併合100年(102)

(1)日本海海戦に負けたので、ロシアも和平を考慮せざるを得ない。(2)和平交渉は、日本としては日露直接行う必要がある、考えている。(3)しかしそのためにも中立者の「友誼的斡旋」が必要であり、(4)ついてはルーズベルト大統領に、日本から頼まれたのではな…

日韓併合100年(101)

Theodore Roosevelt(セオドア・ルーズベルト)は、1901/9/14、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されたことをうけて、42才と10か月と言う若さで副大統領から大統領に就任している。そのため第26代大統領となったT.ルーズベルトの2…

日韓併合100年(100)

(※)ウラジミール湾は、ウラジオストクの東、北海道の積丹半島の西約400kmのロシア沿海州の日本海に面している軍港である。地図で見ると、オリガという都市のすぐ北20~30kmに位置する湾である。現在は、ロシア海軍の攻撃型原子力潜水艦の基地で…

日韓併合100年(99)

さてここでバルチック艦隊の損害状況を見てみよう。軍艦名はWikipediaや「日露戦争4」(児島襄)などを参照している。 1.戦艦・スウォーロフ(旗艦)、 5/27 19:27沈没 第1戦隊2.戦艦・アレクサンドル三世、 5/27 19:00沈没 同3.戦艦・ボロジノ、 5/27 19:…

日韓併合100年(98)

東郷大将率いる第1戦隊は、ロシア戦艦「ニコライ一世」と「アリョール」を引率して、19:45に戦場を離れた。上村中将率いる第2戦隊は、巡洋艦「磐手」と「八雲」が装甲海防艦「ウシャコフ」の追跡に派遣されているため、「セニャーウィン」の捕獲作業が遅れ…

日韓併合100年(97)

そして巡洋艦、駆逐艦を含むバルチック艦隊の全57隻中、ウラジオストクを目指すことが出来たのは(まともに動ける船は)、たったの15隻になっていた。即ち上記の主力と言われた5隻と4隻の巡洋艦、6隻の駆逐艦の15隻だけとなっていた。しかしこれら…

日韓併合100年(96)

1905/5/27,18:00過ぎ、日没が迫り視界が狭まった。「日露戦争5」(児島襄)は次のように述べている。 この時刻には、戦闘はだれ気味になっていた。連合艦隊は、戦艦「オスラビア」のほか仮装巡洋艦「ウラル」と運送船「ルス」を撃沈し、旗艦「スウォーロフ…

日韓併合100年(95)

丁字に頭を抑えられたバルチック艦隊は、南東に逃げている。そのため両艦隊は並航戦となっている。もっぱら「三笠」のみが被弾し、他艦には殆ど着弾していない。しかし第2戦隊の「浅間」に着弾した12インチ砲弾は、死傷者は無かったものの、舵輪操作を不…

日韓併合100年(94)

バルチック艦隊の砲弾は、「三笠」以外にはいまだ一発も当っていない。 バルチック艦隊主力は、次の12隻。戦艦8隻、装甲巡洋艦1隻、装甲海防艦3隻。 スウォーロフ(戦艦)(沈没)、アレクサンドル三世(戦艦)(沈没)、ボロジノ(戦艦)(沈没)、ア…

日韓併合100年(93)

「取舵一杯っ」(左転)だ。敵の射程距離内での敵前Uターンである。バルチック艦隊の頭を抑える「丁字戦法」の発令である。14:07、三笠回頭、連合艦隊の第1戦隊6隻の戦艦が一斉回頭を開始する。第2戦隊の6隻もそれに続く。バルチック艦隊は攻撃準備のた…

日韓併合100年(92)

さて1905/5/27の03:00前に、仮装巡洋艦信濃丸がその左舷に発見した灯火は、病院船「アリョール」のものであった。そして臨検のため後方より相手の左舷に回り込むと、更に左舷方向に多数の軍艦と煤煙を発見し、5/27午前4:45に「ネ、ネ、ネ、、ネ」(敵艦隊ら…

日韓併合100年(91)

ロシアは、1895/4/23の三国干渉により日本から遼東半島を返還させ、その代わり1898年3月27日、清との間で(賄賂で)「旅順大連租借条約」を結び、旅順湾、大連湾を25年間の租借、東清鉄道(シベリア鉄道の支線)の支線(ハルピン、大連、旅順)を大…

日韓併合100年(90)

バルチック艦隊は1905/4/14にフランス領インドシナのカムラン湾に入港、ここで第3太平洋艦隊と5/9に合流している。そして5/14、カムラン湾を出港し、5/23、10時ごろ宮古島へ雑貨を運んでいる琉球帆船「宮城丸」に、望見されている。この件は2011/6/7のNO.…

日韓併合100年(89)

しかしこのときバルチック艦隊は東北方向に進行していたため、なまじっかこの情報は遅く着いて日本にとっては幸運であった。東北行きということは、バルチック艦隊が北上するコースと思われるからであり、この時点では軍令部も連合艦隊司令部も、バルチック…

日韓併合100年(88)

マダカスガルのノシベは、島の北端より一寸南下した東側にある島である。ノシが島、べが大きいと言う意味と言う。さてロシアの第1太平洋艦隊(旅順艦隊、浦塩艦隊、マカロフ中将司令官→ビトゲフト司令官)は、1904/12/5 に旅順の203高地を占領されそこに観…

日韓併合100年(87)

クロパトキンのこの撤退は「戦略的撤退」と言っている。日本軍を遠く内陸へ引っ張り込んで、補給線が延びきったところで、叩き潰すと言うものであったが、この撤退でロシア軍の士気は落ちに落ちてしまった。そのため軍隊としての体を為さずに、鉄嶺も捨てハ…

日韓併合100年(86)

そして同日1905/2/27には乃木第3軍が北上を開始する。それに伴い各軍が支援砲撃を開始する。日本軍は、ここでも28cm榴弾砲を活用して敵に脅威を与えている。しかし砲弾の飛ぶ音には驚くものの、その性格上不発弾が多くそれほどの効果は無かったと言う。…

日韓併合100年(85)

この奉天会戦には、それまでの会戦と異なり、重要な意味があった。日本は戦力的に言っても、もちろん財政的にも破産寸前の状態であったため、奉天で勝ってロシアとの講和談判に望みたいと言う戦略的目標があった。そのためにもロシア軍の補充が行き届かない…

日韓併合100年(84)

そんな時この解雇問題が発生する。司祭ガボンはその労働者達の復職を、工場側に請願するが工場側は頑として聞き入れなかった。そのためガボン組合側は1/16にストライキを行い交渉を求めたが、これまた聞き入れられなかった。そのためストライキは他の工場に…