2010-11-01から1ヶ月間の記事一覧

日韓併合100年(32)

海城は蓋平と遼陽のほぼ中間地点に位置し、交通の要衝であり清国にとっても重要拠点であった。蓋平は営口から50km~60kmほど渤海の遼東湾沿いに南下した河口に位置する。海城の攻略は12月1日に第1軍の第3師団に命令が下され、酷寒の凍結した大…

日韓併合100年(31)

さて日清戦争はまだまだ続いている。 第2軍が花園口に上陸(10/21)して旅順に迫っている時、1894年10月24日第1軍は先遣部隊が鴨緑紅の渡河を開始し、10月25日早朝本隊も渡河を開始、敵砲台への攻撃を開始した。初めて清国の領土に攻め入った…

日韓併合100年(30)

アメリカの新聞に掲載された弁明は次のようなものであった。1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった。3. 住民は交戦前に逃亡していた。4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するように命令されてい…

日韓併合100年(29)

中国人の日本人に対するこのような残虐な行為は、この後何度も繰り返されている。 例えば小生のブログの'07.5.8の『中国の対日特殊工作(スパイ)』、'07.5.11の『通州事件』、更には'08.2.15の『中国・虚妄のプロパガンダ』にも概略が記されている。更には…

日韓併合100年(28)

旅順は天然の良好で清国屈指の軍港で北洋艦隊の母港でもあった。日清 戦争で日本に割譲されたものの、1895年4月23日にロシア、フラ ンス、ドイツの三国が「遼東半島は清国に返還すべし」との勧告によ り、清国に返還されている。これが三国干渉である…

日韓併合100年(27)

日本はなぜこれ程までして清国と戦ったのか。それは朝鮮のために戦ったのである。すべてが日本のためだけではなかったのだ。朝鮮が中国の千年属国のままであれば、当時の世界情勢からして中国(清国)は列強の餌食となり、千年属国の朝鮮はロシアか他の列強…

日韓併合100年(26)

大捷とは大勝利のこと、大勝のことである。 『日清戦争黄海海戦』http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.htmlによれば、旅順港に逃げ込んだ北洋艦隊は陸上から包囲されて威海衛に逃げ帰った。そして日本海軍の水雷艇攻撃と地上からの攻撃により全面…

日韓併合100年(25)

『どらぼた庵』http://kouzuke.s11.xrea.com/ というホームページに『日本のうた講座』というコンテンツがある。そこには「明治維新」「日清戦争」「日露戦争」に関する解説とそれらに関する『日本のうた』が紹介されている。そして「黄河の大捷」はラッパの…

日韓併合100年(24)

日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。と言うのも清国の北洋艦隊は持久戦を狙い戦力の温存をはかって、なかなか威海衛から黄海へ出てこなかったからだ。 威海衛は山東半島の先端に位置し、渤海海峡に面しており、丁汝昌率い…

日韓併合100年(23)

その内容は、小生の独断と偏見で以下に概略してみる。『朝鮮国の内乱はその内政に起因している。よってわが国は朝鮮の内政を改良してその根源を根絶させたい。それを実行するには朝鮮との関係が深い貴国(清国のこと)とわが国が共に協力する必要がある。こ…

日韓併合100年(22)

高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このことは、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。さればたと…

日韓併合100年(21)

(1)清国駐在の領事・武官から清軍の増派を知らされた日本軍大本営は、1894年7月19日に同日編成された連合艦隊に、1.朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2.兵員増派を発見次第輸送船団と護衛艦隊の破砕を指示した。 (2)1894年7月25日早朝、…

日韓併合100年(20)

この例でも分かるように農村も荒れていた。壬午軍乱の翌年の1883年頃から農民の反乱が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日に全羅道での民衆の反乱に対して、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして東学の弾圧を始めた。東学とは…

日韓併合100年(19)

当時は軍事力が直接的に物を言う時代、現代もそのことは通用しているが、では、軍事力が不足すると、非が相手国にあっても外交問題では負けてしまうのであった。そのため日本は散々苛められてきたのである。その点日本の軍拡8カ年計画は、今の中国のアジア…

日韓併合100年(18)

このように世界の動きは日本の近代化を待ってはくれなかった。特に壬午軍乱(1882年・M15年)による公使館焼き討ちや日本人が殺戮されたこと、また甲申事変(1885年・M18年)による日清駐留軍の武力衝突したことなどのため、富国強兵が改めて…

日韓併合100年(17)

さてこの女・子供を含む近親者への残酷な処刑は、中国・朝鮮への憎悪を福沢諭吉らに呼び起こさせて、福沢諭吉の「脱亜入欧」論を発表させることになり、日本近代化の方向性が定まるきっかけともなっている。そして日本軍の惨敗の結果が反省され、後の日清戦…

日韓併合100年(16)

その後日本は花房公使を全権委員として、軍艦5隻、歩兵1個大隊と海軍陸戦隊を派遣する。これに対し宗主国としての清国軍戦艦とアメリカ軍艦が派遣され日本側を牽制する。結局は、日本は公使館の警護のために日本軍を駐留させることになる。このことは、清…

日韓併合100年(15)

言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外交関係を築こうとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独立を認めても、清国をはじめ世界は朝鮮を清国の属国と認めていた。例えば、1885年にイギリスが朝鮮半…

日韓併合100年(14)

そして更に続けている。 「韓国は、1000年以上にわたって宗主国への貢女と宦官の献上と言う哀史を抱えている。妓生の秘史も、過去の軍妓、駐留軍慰安専用の「ウォーカーヒル」つまり「米軍将兵慰安総合遊興村」などから、現在の「退廃理髪店」に至るまで…

日韓併合100年(13)

この書籍では、「統一新羅の時代から李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主国の元、明、清へと貢女を進貢してきたとの記録もある」と述べている。「婚姻の習慣から言えば、古代朝鮮は売春婚の国である。中華帝国をはじめとする北方諸王朝への貢女の献上は、古代か…

日韓併合100年(12)

話は戻るが以上みてきたように、朝鮮半島は355年の高句麗時代(北燕に朝貢)から周辺国家へ朝貢している。それ以来ずっと満州、中国などの周辺国家に服属し、朝貢してきている。黄文雄氏は、朝鮮のことを千年属国と称しているが、このように史実を眺める…