このように世界の動きは日本の近代化を待ってはくれなかった。特に壬午軍乱
(1882年・M15年)による公使館焼き討ちや日本人が殺戮されたこと、また
甲申事変(1885年・M18年)による日清駐留軍の武力衝突したことなどの
ため、富国強兵が改めて叫ばれることとなったが、明治18年当時の日本の財
政にとってはかなり厳しいものであった。しかし清国の軍拡(定遠、鎮遠は188
5年に就役している)、清仏戦争(1884~5年)、露朝密約事件(1885~6
年)巨文島事件(1885年)、シベリア横断鉄道(1891年・M24年起工)など、
日本は毛を逆立てるだけではなく爪と牙を磨き、自国を守りきる必要があった。
清国海軍は北洋艦隊を、ロシアのウラジオストックを訪問した後、艦艇修理を名
目に1886年(明治19年)8月1日に長崎に入港させている。定遠、鎮遠、
済遠、威遠の4隻である。定遠と鎮遠は、清国がドイツから購入した装甲戦艦
で7,300トンの巨艦であった。その時の日本海軍の最大艦は、「高千穂」でそ
の半分の3,700トンであった。これは明らかに清国の威嚇のための示威行
動であった。更に8月13日には上陸した水兵達が遊郭で暴れだし警察官とお
互いに抜刀して切りあう乱闘を起こし、双方に死傷者を出している。更に15日
には、前日の士官の監督の下に上陸すると言う協定に反して300人の水兵が
上陸し、武器を持ち交番を襲撃しそれぞれに死傷者を出している。これを長崎
事件と呼び甲申事件と共に、日本の感情を大いに刺激し反清感情が極限まで
に高まり、これも日清戦争の引き金のひとつとなっている。そのため民権論を主
張する政治結社の玄洋社の頭山満は、国権論へと転向している。また長崎事
件の2ヵ月後の1886年10月24日にはイギリス貨物船「ノーマントン号」が
紀州沖で座礁し沈没している。イギリス、ドイツ、中国、インド、日本人(25名)が
乗船していたが、白人はほぼ全員が助かったのに、日本人全員とインド人乗組
員も全員が死亡した。この人種差別に日本人の怒りは頂点に達したが、当時は
不平等条約で外国人には治外法権があり日本での裁判は実施できなかった。
これを「ノルマントン号事件」と呼んでいる。この長崎事件とノルマントン号事件
の二つは明治期の重大な外交事件と言われている。
定遠、鎮遠の舷側装甲の最大厚は305mm、主砲も30.5cmと、日本海軍か
ら見ると化け物のような巨大戦艦であった、とWikipediaには記載されている。
1886年4月末に就役した高千穂の装甲は、Wikipediaによると平坦部51mm
傾斜部76mmで26cm単装砲4基などであった。日本が本格的に定遠、鎮遠
に対抗する軍艦として建造された軍艦は、松島、厳島、橋立であり、三景艦と
呼ばれた。それでも甲板上部の主砲部分が300mmで他の部分の装甲は40~
75mmであった。Wikipediaによると小さな船体に定遠の30.5cmを上回る巨
砲32cm一基積んだ背伸びしたものであった。そのため子供に大型拳銃を持
たせ、撃たせるようなものであった、と言われ日清・日露戦争ではそれなりの働
きはしたようだが、決定的な働きは出来なかった。むしろ艦隊行動の高速機動
性を有する12cm砲以下の速射砲を備えた軍艦による戦果のほうが大きかっ
た、と記されている。
壬午軍乱の起きた1882年、その12月に、政府は「軍拡8カ年計画」を決定
している。
その総額は、8ヵ年で5,952万円であった。この年の一般会計歳出決算額は、
7,348万円であった。そのため一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、
20%以上で推移し、「軍拡8カ年計画」が終わっていた1892年(明治25年)度
の31%がピークであった。これは当時の日本を取り巻く状況、例えば清国の
砲艦外交や長崎事件などを見れば、至極当然の成り行きであった。
(続く)