2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧

日韓併合100年(67)

このようにして新興国アメリカは老舗スペインの太平洋、大西洋の植民地の全てを分捕ってしまった。このためスペインは凋落の一途を辿り、ポルトガル・スペインと言った一時を謳歌した帝国は、新興国家アメリカに覇権を奪われていき、反対にアメリカの興隆が…

日韓併合100年(66)

ちなみに、アメリカはラフ・ライダーズ(荒馬乗り)連隊など17,000人を派遣した。この連隊の中佐として戦いを指揮したのが、後に大統領となったセオドア・ルーズベルトである。地上戦は要所のサン・ホアン高地が1898年7月1日の1日で陥落し、大…

日韓併合100年(65)

そして日本政府は1904年2月10日に、ロシア政府に宣戦布告を通達した。この時代は、国交を断絶した場合宣戦布告なしに攻撃が出来た。従って旅順口急襲は合法的な処置であった。国交を断絶している以上、何時攻撃されても良いように準備しておく必要が…

日韓併合100年(64)

しかもロシアはウラジオストクに4隻の巡洋艦を持っていた。旅順に目が行っていたため、ウラジオ艦隊は日本近海に出没しては、日本商戦や輸送船を攻撃していた。そのため上村彦之丞司令長官(中将)の第2艦隊を派遣しウラジオ艦隊捜索するも、なかなか発見…

日韓併合100年(63)

ひとつは、魚雷の性能が実践的ではなかった。当時の日本の魚雷は「冷走魚雷」と言われるもので、全く以って比ぶべくもない代物であった。冷走魚雷は、圧縮空気をピストンエンジンに送って1機のスクリューを毎分100回転まわして、低速(12km/h程度…

日韓併合100年(62)

さて昨年末に放映されたNHKの「坂の上の雲」では旅順口を奇襲して日露戦争の戦端の緒が切られた、と放映されている。当ブログでは、1904年2月8日に仁川港外でのロシア軍艦コレーツとの小競り合いを、日露の最初の交戦であったと述べている。これは…

日韓併合100年(61)

さてかなり講釈が長くなってしまったが、その「日韓議定書」の全6条を次に示そう。 日韓議定書 大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下の外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔は各相当の委任を受け左の條款を協定す 第一条 日韓両国間に恒久…

日韓併合100年(60)

ハバロフスクの西北西の直線距離で600kmほどの所にブラゴヴェシチェンスクがある。中国名で海蘭泡と呼ばれていたそうだが、1900/7に義和団の一部が占拠したところだ。ブラゴヴェシチェンスクはアムール川(黒竜江)沿いのロシアの州都である。対岸は中…

日韓併合100年(59)

さて日露関係が風雲急を告げると、1904年1月21日、準当事国の韓国は日露両国が開戦した場合には、「戦時局外中立」をすると宣言した。満州を占領されていた清国をはじめ各列強もこれを是とした。清国は正に当事国である、「満州還付に関する露清条約…

日韓併合100年(58)

まず事の起こりは、アメリカ人実業家 J.R.Morseが1897年に京仁線(京城-仁川)の鉄道工事をはじめたことに始まる。しかし着工したものの労働争議などで円滑に工事は進まずそのうちに資金不足に見舞われ、1898年にその権利を渋沢栄一らの京…

日韓併合100年(57)

さて近代におけるロシアの満州への侵略は、1895年4月23日の三国干渉により、明白となる。そして、1896年2月11日には、朝鮮高宗がロシア公使館に拉致される(露館播遷)。1896年6月3日の第1次露清密約(カッシーニ密約とも呼ぶ)の軍事…

日韓併合100年(56)

話は少し逸れたが、日本にはイスラエルのある支族がやってきたと言うことは確からしい。そして、昭和天皇のお言葉に、日本民族とユダヤ民族との親近感を感ずるのである。何はともあれ、日本はヤコブ・シフ氏に救われたのである。 さて日本では新橋から神戸ま…

日韓併合100年(55)

さて高橋是清も金策には苦労した。外部環境はすこぶる悪かった。極東のちっぽけな島国が世界一強大なロシアと戦って勝てるわけがない、と言うのが当時の常識であった。だから誰も小国日本に金なんぞ工面してはくれなかった。Wikipediaによると、当時の日銀の…

日韓併合100年(54)

1904年1月12日、御前会議では、最終的に、日本の要求が受け入れられなければ開戦することを確認する。そして必要な金を工面するために日本銀行副総裁の高橋是清を、イギリス・アメリカに派遣する。そしてアメリカを味方につけるために、金子堅太郎を…

日韓併合100年(53)

しかも、旅順大連租借条約(1898.3.27)でハルピンから大連・旅順への鉄道敷設権を獲得し(東清鉄道支線)、1903年1月に完成させている。ロシア領のチタから清国領の満州里、ハルビン、ウラジオストク(正しくは浦塩近くのウスリー鉄道)への連結(東清…

日韓併合100年(52)

ロシアの満州への兵力増強は、日本政府内においても混乱をもたらした。日本は1902年2月30日に、日英同盟を締結し対ロシア戦争の準備は進めてはいたが、極力外交努力でロシアとの衝突は避けようとした。そのため、小村寿太郎外相、桂太郎首相、山縣有…