日韓併合100年(52)

ロシアの満州への兵力増強は、日本政府内においても混乱をもたらした。日本

1902年2月30日に、日英同盟を締結し対ロシア戦争の準備は進めては

いたが、極力外交努力でロシアとの衝突は避けようとした。そのため、小村寿

太郎外相桂太郎首相、山縣有朋枢密院議長(天皇の諮問機関、日露戦争

は陸軍参謀総長)らの主戦論に対して、伊藤博文政友会総裁や井上馨三井顧

問・元蔵相などの戦争回避派との論争が続いていた。民間でも上述した様に主

戦論が強まっていった。


そして1903年4月21日、対露交渉の方針を打ち合わせる会談が、京都に

あった山縣の別荘の無隣庵(正式には、
無鄰菴むりんあん)で開かれた。出席

者は総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎枢密院議長山県有朋、政友会総

伊藤博文である。ロシアは満州に居座り北朝鮮での利権の拡大に乗り出して

いたので、ロシアの強大な軍事力を鑑(がんが)み「
満州における利権は認める

かわりに、朝鮮における日本の権利を認めさせる。そのためには戦争をも辞さ

ない覚悟で臨む。
」と言う方針を、桂と小村はこの会議で決めたかった。


Wikipediaによると、この無隣庵会議では、桂首相は
満州問題に対しては、我

に於いて露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」

、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟なかる可からず」
と言

う対露交渉方針を、山縣元老と伊藤総裁の同意を得たのであった。要は『満州

についてはある程度は譲歩しても、朝鮮については一切譲歩しない
』という

ことで、日本政府として意思統一したのであり、そしてそのためには日露開戦

の覚悟
を再確認したのである。しかし、対露交渉は慎重に進める必要があっ

た。なんと言ってもロシアは世界最大の軍事大国である。


1903年8月
の日露交渉において、「ロシアは満州を支配下に置く代わりに、

日本は朝鮮半島を支配下に置く」と言う、いわゆる『満韓交換論』を、日本はロ

シアに提案した。しかしこの妥協案にロシアは興味を示さなかった。常識的に考

えれば、強大なロシアは日本との戦争に何ら恐れる理由は何もなかった。セル

ゲイ・ウィッテ首相だけが、戦争に負けることはないがロシアが疲弊することを恐

れて、戦争回避論を展開したが、ニコライ2世皇帝によって退けられている。

ウィッテは、あの三国干渉を主導した蔵相ウィッテその人である。このときは首

相にまで上り詰めていたのである (12/8,NO.37のブログ参照のと)。

Wikipediaによれば、
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)


この時のロシア皇帝・ニコライ2世や陸軍大臣のクロパトキンなどは、日本との

開戦には積極的に賛同していた。昨年末のNHKの「坂の上の雲」での、ニコラ

イ2世の日露開戦を避けたいとした物語とは全く逆な状況である。どちらが本物

なのであろうか、これは偏向NHKの作り話であろう。


ロシアの回答は、日本を馬鹿にしきったものであった。ロシアは、朝鮮における

日本の地位を否定したものであった。即ち、朝鮮半島の北緯39度以北を中立

地帯として、軍事目的での利用を禁止すると言うものであった。現在38度線で

朝鮮半島は南北に分断されているが、北緯39度とは、今の平壌ピョンヤン付近

を通っている。もしこんなことに同意すれば、朝鮮半島は確実にロシアの支配下

に置かれることになろう。そうすると日本の独立は確実にロシアに脅かされる

ことになる。

(続く)