ロシアの満州への兵力増強は、日本政府内においても混乱をもたらした。日本
は1902年2月30日に、日英同盟を締結し対ロシア戦争の準備は進めては
いたが、極力外交努力でロシアとの衝突は避けようとした。そのため、小村寿
太郎外相、桂太郎首相、山縣有朋枢密院議長(天皇の諮問機関、日露戦争で
は陸軍参謀総長)らの主戦論に対して、伊藤博文政友会総裁や井上馨三井顧
問・元蔵相などの戦争回避派との論争が続いていた。民間でも上述した様に主
戦論が強まっていった。
そして1903年4月21日、対露交渉の方針を打ち合わせる会談が、京都に
あった山縣の別荘の無隣庵(正式には、無鄰菴むりんあん)で開かれた。出席
者は総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎、枢密院議長山県有朋、政友会総
裁伊藤博文である。ロシアは満州に居座り北朝鮮での利権の拡大に乗り出して
いたので、ロシアの強大な軍事力を鑑(がんが)み「満州における利権は認める
かわりに、朝鮮における日本の権利を認めさせる。そのためには戦争をも辞さ
ない覚悟で臨む。」と言う方針を、桂と小村はこの会議で決めたかった。
Wikipediaによると、この無隣庵会議では、桂首相は「満州問題に対しては、我
に於いて露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」
、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟なかる可からず」と言
う対露交渉方針を、山縣元老と伊藤総裁の同意を得たのであった。要は『満州
についてはある程度は譲歩しても、朝鮮については一切譲歩しない』という
ことで、日本政府として意思統一したのであり、そしてそのためには日露開戦
の覚悟を再確認したのである。しかし、対露交渉は慎重に進める必要があっ
た。なんと言ってもロシアは世界最大の軍事大国である。
1903年8月の日露交渉において、「ロシアは満州を支配下に置く代わりに、
日本は朝鮮半島を支配下に置く」と言う、いわゆる『満韓交換論』を、日本はロ
シアに提案した。しかしこの妥協案にロシアは興味を示さなかった。常識的に考
えれば、強大なロシアは日本との戦争に何ら恐れる理由は何もなかった。セル
ゲイ・ウィッテ首相だけが、戦争に負けることはないがロシアが疲弊することを恐
れて、戦争回避論を展開したが、ニコライ2世皇帝によって退けられている。
ウィッテは、あの三国干渉を主導した蔵相ウィッテその人である。このときは首
相にまで上り詰めていたのである (12/8,NO.37のブログ参照のと)。
Wikipediaによれば、
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)
この時のロシア皇帝・ニコライ2世や陸軍大臣のクロパトキンなどは、日本との
開戦には積極的に賛同していた。昨年末のNHKの「坂の上の雲」での、ニコラ
イ2世の日露開戦を避けたいとした物語とは全く逆な状況である。どちらが本物
なのであろうか、これは偏向NHKの作り話であろう。
ロシアの回答は、日本を馬鹿にしきったものであった。ロシアは、朝鮮における
日本の地位を否定したものであった。即ち、朝鮮半島の北緯39度以北を中立
地帯として、軍事目的での利用を禁止すると言うものであった。現在38度線で
朝鮮半島は南北に分断されているが、北緯39度とは、今の平壌ピョンヤン付近
を通っている。もしこんなことに同意すれば、朝鮮半島は確実にロシアの支配下
に置かれることになろう。そうすると日本の独立は確実にロシアに脅かされる
ことになる。
(続く)