2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

ヨーロッパと日本(18)

この天神地祇御誓祭に先立ち、神祇事務局が神聖な儀式のための諸準備行事 を行い、議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わり神前で「御祭文」を奉読する。 御祭文は御祓いのための祝詞(神に告げる言葉)なのだ。それから天皇自ら玉 串を捧げて神拝する。そして…

ヨーロッパと日本(17)

14.五箇条の御誓文(1868年4月6日、明治元年3月14日) 第15代将軍徳川慶喜による「大政奉還」(1867.11.19)、岩倉具視らの「王政復 古」のクーデター(1868.1.3)そして明治天皇による「王政復古の大号令」によっ て新政府へと「御一新」を果たし…

ヨーロッパと日本(16)

13.箱館戦争(1868年12月4日~1869年6月27日) さて話を戊辰戦争に戻そう。戦いはそろそろ函館へと移って行く 1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城が「無血開城」し徳川家の「辞官 納地」が決定した。このため約8万人の幕臣を…

ヨーロッパと日本(15)

12.明治改元の詔(1868年10月23日,慶応4年9月8日) 戊辰戦争の会津若松で激戦が続く最中、1868年10月23日(慶応4年9月8 日)、明治天皇は一世一元の詔(みことのり)を発し、慶応4年を改め明治元年 とした。そして天皇一代に元号…

ヨーロッパと日本(14)

1868年7月4日(慶応4年5月15日)、いまだ抵抗する上野彰義隊を攻撃し壊 滅させ新政府は江戸以西を掌握する。 更に、1868年10月8日(慶応4年8月23日)新政府軍は会津若松城下に突 入し、これを制圧する。このとき城下町で発生した火災を…

ヨーロッパと日本(13)

11.戊辰戦争(1868年1月27日~1869年6月27日) 辞官納地が決したからと言って平穏に政権が委譲したわけではない。一山も二 山も越えなければならなかった。 山内容堂等の公議政体派が巻き返しを図り、諸藩にも動揺が広がり、慶喜が王 政復…

ヨーロッパと日本(12)

これにより倒幕の大儀名目はなくなり徳川慶喜の政権が引き続き維持されること となり、薩長や岩倉具視たちが実権を握るには、満15歳の明治天皇を手中にし て親徳川派の公家衆を排除し、朝廷を掌握するためのクーデターによる他なく 「王政復古」へと向かう…

ヨーロッパと日本(11)

10.大政奉還(1867)・王政復古(1868) 倒幕への流れが強くなる中土佐藩の参政・後藤象二郎は、「政権を朝廷に返還し 広く人材を登用し議会政治を推し進める」、などと言う坂本龍馬発案の「船中八 策」を、山内容堂に進言した。容堂はこれを妙案…

ヨーロッパと日本(10)

9.四候会議(1867年・慶応3年5月) かねてより風邪気味であった孝明天皇はその病状を悪化させ、1867年1月 30日(慶応2年12月25日)崩御される。その死因については諸説あるが天然 痘を患ったと言うのが正確なものであろう。直ちに孝明天…

ヨーロッパと日本(9)

8.薩長同盟(1866年3月7日)と第2次長州征伐 この間、幕藩体制から脱却して新しい日本を早く築き上げるたるめに、薩摩と長 州とを仲直りさせ同盟を結ばせる動きが密かに進められていた。土佐藩士の中 岡慎太郎、土方楠左衛門(ひじかた くすざえも…

ヨーロッパと日本(8)

7.蛤御門の変(禁門の変)(1864年8月20日) 京都を追われた長州を中心とする尊皇攘夷派は、潜伏して勢力回復を図ってい た。そして公武合体派を暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去ると言う御所焼き討ち 計画を立案していた。しかしその武器を調達する商…

ヨーロッパと日本(7)

6.下関戦争(馬関戦争)と文久の政変 (1863年5月、1863年9月、1864年8月) これより前、1862年9月朝廷は江戸へ勅使を送り、攘夷を申し付けている。 これを受け、徳川家茂は1863年3月に上洛し朝廷に、5月10日に攘夷を実行 す…

ヨーロッパと日本(6)

5.生麦事件と薩英戦争(1862年9月、1863年8月) そして1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村(神奈川県横浜市鶴見の 生麦)付近で、薩摩藩の島津久光の行列に突っ込んだイギリス人4人の内、商 人のリチャードソンが薩摩藩士に切り…

ヨーロッパと日本(5)

4.日英修好通商条約(1858年) 今年は日英修好通商条約調印後150周年に当たる。そして今年一年を「UK- JAPAN 2008」と呼称し、英国の創造性を紹介し日本とのコラボレーションを強化 しようとしている。英国の芸術、科学技術、クリエイティブ産業分…

ヨーロッパと日本(4)

3.ナポレオン戦争(1803年~1815年) 第2次対仏大同盟に包囲されたフランスは、ナポレオンなどの活躍により戦況を 盛り返し、1802年3月25日、フランス北部のアミアンで講和条約が締結され (アミアン条約)、フランスがイタリアを含 む周…

ヨーロッパと日本(3)

この事件は明治維新の60年前、ペリー来航の45年前の出来事である。ちなみ にペリーは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に黒塗装の軍艦4隻を率いて 浦賀沖に現れている。従って、このイギリス船フェートン号事件はペリー来航の 半世紀も前の起こ…

ヨーロッパと日本(2)

2.長崎の出島(1634年~1859年) また、オランダがフランスに占領されたことは、遠く日本にも少なからぬ影響を与 えている。(フェートン号事件) ちなみに日本とオランダとの関係は、1600年にオランダ商船リーフデ号が現在 の大分県臼杵市に…

ヨーロッパと日本(1)

遠く話をヨーロッパのフランスに持っていこう。 1.フランス革命と革命戦争(1789年~1802年) 18世紀後半のフランスでは、ブルボン王朝のルイ16世の時代が終わりを迎え ようとしていた。1789年7月14日、アンシャン・レジーム体制(旧体…