倒幕への流れが強くなる中土佐藩の参政・後藤象二郎は、「政権を朝廷に返還し
広く人材を登用し議会政治を推し進める」、などと言う坂本龍馬発案の「船中八
策」を、山内容堂に進言した。容堂はこれを妙案と考え、1867年10月29日
(慶応3年10月3日)徳川慶喜に建白書として提出する。これを受け、慶喜は
上洛中の40藩の重臣を集め、大政奉還を諮問する。おりしも討幕派公家らの
画策による「倒幕の密勅」が下されようとしていたときである。この倒幕の密勅
は、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に長州藩に下され、一日前には
薩摩にも下されている。しかし天皇の直筆や署名した3名の公家達の花押もなく
極めて異常な形式のものであった。内容は「賊臣慶喜を討て」と言うようなもの
で、岩倉具視たちが暗躍して討幕派の公家達に書かせたものである、と言う
のが通説である。その同じ日に、慶喜は政権の返上を決め1867年11月9日
(慶応3年10月14日)明治天皇に対して統治権の返上を上奏する。
天皇は翌日1867年11月10日(慶応3年10月15日)参内した慶喜に大政奉
還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立する。
更に慶喜は、1867年11月19日(慶応3年10月24日)征夷大将軍職の
辞職も朝廷に申し出る。朝廷側ではまだ政権担当能力が不足しており、大政奉
還後も実質的な政権担当は徳川幕府がになわざるを得ないとの思惑があった。
しかも朝廷内でも、親徳川派の公家達が支配的な力を持っていた。
(続く)