ヨーロッパと日本(1)

遠く話をヨーロッパのフランスに持っていこう。

1.フランス革命と革命戦争(1789年~1802年)

    

18世紀後半のフランスでは、ブルボン王朝のルイ16世の時代が終わりを迎え

うとしていた。1789年7月14日アンシャン・レジーム体制(旧体制、王政

封建体制)に不満を募らせていた民衆(第3身分)が、当時は火薬庫であった

バスチューユ牢獄を襲撃した。このパリでの事件がフランス全土に飛び火した。

農民達が暴動を起こし、貴族や領主の館を襲い、借金の証文などを焼き捨てる

と言う事件が頻発した。これが世に言う、フランス革命1789年7月14日~

1794年7月27日)の始まりである。

これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に人権

宣言を採択した。しかし国王はまだ主権者であった。しかし政治的な混乱とパリ

の騒乱が拡大し、ルイ16世はこれらの圧力により人権宣言を承認せざるを得

ず、更にはヴェルサイユ宮殿を離れ、テュイルリー宮殿でパリ市民の監視の下

で生活を送ることとなる。1791年には、過激化する革命を嫌いオーストリア

の逃亡を企てるが、国境手前のヴァレンヌで地元民衆に見つかり1791年6月

25、パリに連れ戻される。(ヴァレンヌ事件

このヴァレンヌ事件を知り、革命の波及を恐れたオーストリアプロイセンが、ド

レスデンのピルニッツ城で会見し、必要あればフランス革命に干渉する用意があ

ることを、共同で宣言した。1791年8月27日ピルニッツ宣言である。なお

ーストリア・ハプスブルグ家のレオポルト2世は、ルイ16世の妻・マリーアント

ワネットの兄である。このため、ルイ16世は国王に留まる事となるが民衆の支

持は低下し、1791年9月には、君主制下でも平民に一定の選挙権を認める憲

法が正式に制定される。(1791年憲法

しかし革命政府はこのピルニッツ宣言を重大な脅迫と受け止め、革命維持のた

め対外戦争に踏み切ることとなる。1792年4月20日、革命政府はオーストリ

アに宣戦布告する。これがフランス革命戦争1792年4月20日~1802年

3月25日)である。当初革命戦争は各地で敗退を続けた。フランス軍の士官達

は貴族階級であったため、革命政府にはどちらかと言うと非協力的であった。し

かしプロイセンがフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、そ

れに応じてフランス各地で義勇兵が組織されパリに集結した。このときマルセイ

ユの義勇兵達が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」は後にフランスの国歌となる。

パリ市民と義勇兵達は、負ける原因は戦争に非協力的なルイ16世にあると考え

て、1792年8月10日、テュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家

全員ダンブル塔に幽閉してしまった。(8月10日事件

そして反革命派達に対する9月虐殺が行われ、9月20日のフランス北東部の

マルヌ県ヴァルミー村の戦いプロイセン軍を退却に追い込み、これを期に反

攻に転じ敵軍を国境外まで押し戻すことができた。この過程で第3身分に属する

下層民階級は多くが義勇兵に参加し、政治的発言力を増していった。攻勢に転

じたフランス軍はオーストリア軍にも勝利し、南ネーデルランド全域を占領

る。そしてこの9月には1791年憲法による立法議会が廃止され、普通選挙が

制度化され、新しい議会「国民公会」の議員が選ばれた。そして1792年9月

21日国民公会王政廃止フランス第一共和政の樹立を宣言した。

共和政府はルイ16世を裁判にかけ、僅差で死刑を議決した。そして、1793年

1月21日2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリ革命広場(現コンコルド

広場)でギロチンの露と消えた。マリー・アントワネット1793年10月にギロチ

ンで処刑されている。

この間イギリスも黙っていたわけではない。1793年1月にはイギリスを中心と

した主要国間で第1次対仏大同盟が結成された。そのためフランスは2月1日

イギリスとオランダに宣戦布告する。そのためオランダ統領のウィレム5世

はイギリスに亡命する。

政界では、第3身分代表として進出していたロベスピエールが、1793年6月2

国民公会で他派を追放し権力を掌握し、恐怖政治を断行する。そのためフラ

ンス革命戦争が好転すると、1794年7月27日ロベスピエール派は結束し

ロベスピエール一派を逮捕し、翌日ロベスピエール等はギロチンで処刑されて

まう(テルミドールのクーデターテルミドール9日)。これにより過激な革命

動は沈静化し、フランス革命は終結する。

一進一退を続けていたフランス軍は徴兵制による大動員により大兵力となり、有

利に戦争を進め、その軍隊は巨大な国民軍に替わっていった。そして1795年

初頭大挙してオランダに攻勢をかけ、完全に占領してしまう。そして戦線はイタ

リア、エジプトと拡大し、1798年12月イギリス、オーストリア、ロシアなどに

よっ第2次対仏大同盟が結成される。この頃フランスでは、ナポレオン・ボナ

パルが頭角を現している。彼は、1799年ブルュメールのクーデターによ

り、執政政府を樹立し独裁権を掌握している。

(続く)