まず事の起こりは、アメリカ人実業家 J.R.Morseが1897年に京仁線
(京城-仁川)の鉄道工事をはじめたことに始まる。しかし着工したものの労働
争議などで円滑に工事は進まずそのうちに資金不足に見舞われ、1898年に
その権利を渋沢栄一らの京仁鉄道合資会社に売却する。そして京仁鉄道は
1900年11月21日全線の営業運転を開始する。当時朝鮮は鉄道敷設権や
鉱山開発の権利を金目当てに売却していた。京仁鉄道もその一環であったが、
京釜鉄道も同じく敷設権をモールスに売っていた。モールスは京仁鉄道の権利
と合わせて京釜鉄道の権利も日本に売却する。そして日本は、1898年に大
韓帝国と京釜鉄道敷設に関する京釜鉄道合同条約を調印し、1901年6月
25日に京釜鉄道株式会社を創立する。そして同年1901年8月20日に京城
と釜山で京釜鉄道の工事を、広軌で開始する。1903年11月1日には京仁鉄
道合資会社を合併する。
そして内外情勢の緊急度はいやが上にも増していた。なんと言っても、1903
年1月にはその東清鉄道支線が開通し、ハルビン・旅順間が鉄道で結ばれ、
1903年7月には、東清鉄道がウスリー鉄道とつながり、シベリア鉄道(仮)全
線開通となったからである。そのため政府では、京釜鉄道の全通予定の1905
年末まで待てなくなった。そのため鉄道速成を企画した。1903年10月末に
京釜鉄道の速成が決定され人、物、金などの面で明治政府が全面的にバック
アップすることとなった。1904年末までには開通させようと昼夜兼行の突貫作
業の結果、1904年11月10日、南北の鉄路が結合されたのである。当時の
関係者のご苦労が目に浮かぶ。なお開通式は1905年5月25日、日本海海戦
の2日前に京城南大門停車場で行われたと、先に述べた「京釜鉄道建設と日露
戦争」(http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/denki/coria.htm)
には述べられている。
さてそのバルチック艦隊は、1904年10月15日、リバウ港を出港している。
リバウは現在のラトビアの三番目に大きな都市・人口8.5万人のリエパーヤで
あり、そのバルチック艦隊の母港だったカロスタ軍港は現在観光地になってい
るとWikipediaには書かれている。バルチック艦隊はバルト海艦隊から選抜され
た第2太平洋艦隊と補助艦隊で構成された第3太平洋艦隊とで編成された。
第1太平洋艦隊は、旅順、ウラジオストクを母港とする艦隊であったが、長きに
わたる旅順攻防戦の結果(1904年8月19日から1905年1月1日)、旅順は
陥落し第1太平洋艦隊(旅順艦隊)は壊滅している。そのため旅順艦隊とバル
チック艦隊をあわせ、日本連合艦隊の倍の勢力で対抗すれば日本艦隊を撃滅
できると考えた構想は潰えたのである。もし旅順が落ちなければ日本海の制海
権はロシアに奪われ、満州の日本軍は全滅させられたことであろう。そうすると
今の日本は存在しなかったであろうし、もちろん朝鮮においておや、である。
朝鮮、特に韓国が今存在し繁栄できているのは、ひとえに日本がロシアの侵略
から満州、朝鮮を守った(守ってやった)からのことである。だから韓国は日本
がつくったと言われる所以(ゆえん、わけ・理由)である。「韓国は日本人がつ
くった」と言われる所以はこれだけではない、日本は朝鮮(大韓民国)を併合す
ることによってもっともっと、朝鮮を作り上げていったのであるが、これもおいおい
と説明しよう。今はそれどころではない。いかにロシアの毒牙を払いのけるか、
思案の真っ最中である。
(続く)