ロシアは、1895/4/23の三国干渉により日本から遼東半島を返還させ、その代
わり1898年3月27日、清との間で(賄賂で)「旅順大連租借条約」を結び、旅
順湾、大連湾を25年間の租借、東清鉄道(シベリア鉄道の支線)の支線(ハル
ピン、大連、旅順)を大連まで施設する権利を得ている('10/12/29,NO.50参照の
こと)。このように遼東半島を手に入れ、1900年11月には第2次露清密約を
結び、満州の要塞化に乗り出し、更には同年に韓国の馬山(マサン、釜山の西
隣の港で対岸の巨済島も租借)もロシア極東艦隊の停泊地として租借したので
ある。この結果、満州(奉天)→旅順→馬山→浦塩と日本と韓国との連絡網を
遮断し、朝鮮・満州を囲い込む結果となったのである。
そして東清鉄道を作り、鴨緑江の資源開発利権を獲得し、満州に居座り、朝鮮
を一飲みにしようと企んでいたのである。当然満韓交換論などには、一瞥もする
必要は無かった。
日本の講和の絶対条件三つを下記する。(「日露戦争 6」児島襄による)
(1)「極東平和の最大禍源たる韓国」を、日本が「自由処分」する同意を得る。
(2)満州からロシア軍を「一定期間」内に撤退させる。ただし、日本軍も撤兵する。
(3)ロシアが満州、韓国に対する「侵略の利器」にしてきた遼東半島と東清鉄道
ハルビン支線を、「我が手中に収め」て、将来の禍根を絶つ。
そのほか
・軍費の賠償
・中立国に逃げ込んだロシア軍艦の交付
・サガレン(樺太)及びその付近の諸島の割譲
・沿海州沿岸の漁業権
などを希望条件とした。しかし当時の常識としては、この希望条件などは「当然
且つ自然」なことであったが、日本としても国力の限界まで振り絞って勝利して
来ていたので、先行きが大いに不安であった。そのため講和条件は、大分譲歩
したと思われるものとなっていた。何はともあれ、日本としては朝鮮の独立が最
大の目的であった。ある意味、朝鮮と満州のために、日本はロシアと干戈を交
えたと言っても過言ではない。まさにその通りの状況であった。日本は朝鮮を
救ったのである。そしてその後の日韓合邦で、朝鮮を作り上げていったのである。
アメリカ大統領T・ルーズベルトもまだこの段階(日本海会戦前)では、講和談判
の時期ではないと考えていた。
(続く)