スズキの鈴木修会長の抵抗もむなしく、自公両党の税調は軽自動車税のアップで、2014年度の税制改正大綱をまとめ上げたのである。
増税で軽自動車イジメ 背景にトヨタの思惑?〈AERA〉
2013年12月23日 16時00分 (2013年12月24日 11時52分 更新)
与党が軽自動車税の増税を決定した。軽のユーザーは女性や低所得者、地方に多い。スズキの鈴木修会長兼社長は「弱いものイジメ」と抵抗したが、自民、公明両党は結局、5割の増税で来年度の税制改正大綱をまとめた。「完敗です」と鈴木氏。年間7200円の軽自動車税は、2015年4月以降に買った新車から1万800円になる。
敗因はいくつかある。一つは自動車業界内部の事情だ。
「今年は自動車工業会の大名行列が見られませんでしたね」
自民党国会議員のベテラン秘書は指摘する。税制改正の季節になると、自動車業界は自工会会長を先頭に各社の社長らが、大名行列よろしく議員会館を回る。しかし、今年は副会長の経済産業省OBが業界を代表して回った。自工会会長であるトヨタ自動車の豊田章男社長は、個別に有力議員を訪問した。
「軽増税反対はスズキとダイハツ(トヨタ系)だけ。トヨタは容認の雰囲気でした」(自民党関係者)
これには00年からの伏線がある。トヨタの奥田碩会長(当時)は、自工会会長に就くと、抱負として「軽自動車を含む税制改正」を挙げた。軽への優遇を廃止し、普通車と同じにしようという意見だ。軽メーカーが「自工会はメーカーの団体。トヨタの都合で税制を変えるなど会長の職務を逸脱している」と猛烈に反発し、実現はしなかったが、トヨタなど普通車メーカーにとって、軽は「目の上のタンコブ」なのだ。
国内に8社ある乗用車メーカーで、軽を生産するのは4社。…
生産台数はダイハツ、スズキの2社で6割を占める。その軽が、新車販売全体の4割を占めるまでに成長した。普通車メーカーとしては穏やかではない。
「馬力を増すなら排気量、居住性なら車体を大きくということができる普通車メーカーは、軽をつくれない。限られた条件で高い性能、居住性と低コストを実現する軽とはモノづくりの手法が全く違う」(国土交通省OB)
※AERA 2013年12月23日号より抜粋
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20131223/asahi_20131223_0003.html
まあ軽自動車税の増税は昨年2015年4月1日以降の新車からから実施されたものてあり、2016.4.1以降からは、新車登録から13年経過した車両には、新たに自動車重量税12,900円(自家用軽乗用車に)が課せられている。最近の出来事である。
そんなこんなで現在では軽の売れ行きがやや鈍ってきているが、話を元へ戻そう。
スズキとGMとの資本提携の話である。スズキはバイクモーターから本格的なオートバイで頭角を現し一世を風靡し、四輪へと進出していき世界企業へと成長していった。しかし軽四輪中心の事業で世界で競争してゆくには、幾分かの不安もあったものと思われる。そんな時にGMとの話が舞い込んできたのである。
スズキはGMとの提携になぜ走ったのであろうか、と言う疑問が浮かぶ。と言うよりも、なぜGMはスズキとの提携に走ったのか、と言った方がよいかもしれない。
当時日米間には、日本車の輸入が急増して、自動車摩擦が渦巻いていた。自動車が日米の通商問題の中心であった。そのうえGMは小型車の開発に相当苦労していた。米国の小型車の生産コストは日本の2倍ほども高かった。GMは、日本の小型車の生産ノウハウの習得に躍起となっていたのである。そんな状況の中、伊藤忠商事の米国法人が動く。まず1971年にいすゞとGMを結びつける。しかしいすゞは小型乗用車の開発には、それほど役には立たなかった。そのためGMはホンダをパートナーに選ぼうとしたが、ホンダはそのような会社ではないと周囲から反対され、結局はスズキにたどり着いたものであった。そしてこの話はトヨタへと続いたのであるが。
次に、その当時伊藤忠商事の米国法人の副社長だったJ・W・チャイ氏の自叙伝風の活動歴(仕事人秘録セレクション)を示す。
巨人たちの懐で(6)――GMに2人のスミス
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/7/25 (1/2ページ)
米GMの旧本社ビル
米ゼネラル・モーターズ(GM)の門をたたいたとき、GMは世界最大の製造業だった。
最初に訪問したのは、デトロイトの本社ではなく、ニューヨークのセントラルパークのそばにたつGMビルでした。財務部隊が入居するオフィスです。上司の室伏稔さんと一緒に、経営企画担当幹部のロックウッドさんに面会しました。
僕たちは、いすゞ自動車の提携相手としてGMに白羽の矢をたてていました。ほかの提携話がうまくいっていなかったころです。
なんとかGMに近づきたかった。
ところが、彼の態度は無愛想そのもの。まず「伊藤忠商事って何の会社だ?」と聞かれました。商社の仕事を説明すると、「GMは、そういう第三者とは話さない。世界中、どんな相手とも直接話すルールだ」とまで言われました。
「とりつく島がないじゃないか」。不安になりましたが、無用の心配でした。
伊藤忠の立場や提携の意義を粘り強く訴えたら、ロックウッドさんの目の色が変わってきたのです。こちらの事情を理解すると、すぐに社内で検討作業に入ってくれました。後に知りあうGMマンたちもいったん仲良くなれば、おおらかでいい人ばかりでした。
GMとのつながりは「2人のスミス氏」抜きには語れないという。
1人が、90年代にGMの最高経営責任者(CEO)に就くジャック・スミスさん。デトロイト本社に通い続けているうちに、公私ともども仲良くなりました。
彼は「ワールド・ワイド・プロダクト・プランニング」などの仕事をしていました。日本車の情報に興味があったのかもしれませんが、それより、2人とも「バツイチ男」だったから、意気投合したような気がします。デトロイトも、郊外には意外といい店があって一緒に飲み歩きました。
ジャックは食べ物にも服にも無頓着なんです。彼をふと見ると、シャツからだらしなく肌着がはみ出している。「みっともないから、何とかしろ」と言って、その肌着を脱がせたこともあるぐらいです。何でも言い合えた。デトロイト出張中は、彼の執務室のソファが僕の休憩場所でした。
そのジャックを右腕にしていたのが、ロジャー・スミスさんです。もともと財務屋さん。頭が切れた。
CEO就任は81年。日本に出張するときは必ず同行していたので、彼の考え方も悩みも理解していました。GMは本当に小型車づくりに苦労していました。
「ホンダを買収できないか。提携でもいい」。ロジャーがCEOになるとすぐ、ジャックを通じ、こんな腹案を聞かされました。
GMの黄金期が終わりつつあったのかもしれません。デトロイトへ出張に出るとき、同僚から「治安が良くないとも聞く。気をつけろ」と注意されるようになっていました。
[2013/10/18/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000023072014
(続く)