日本近代化の流れ(62)

(9)グラバイ・デサイ インド弁護士会会長(インド、法学博士)

(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召喚された藤原岩市F機関

    対する挨拶、デサイ博士は藤原岩市参謀の主席弁護人を務めた。)

 

このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。現に優秀な貴国国民においておやである。果たしは日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄することを確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではない。インドネシアベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

 

F機関とは、

 

マレー半島に暮らすインド系住民の協力を得るべく、昭和16年末にわずか11名で活動を開始した特務機関である。その趣旨は「力や威容で敵や住民を屈服させるものではなく、徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に望むのである」として、F機関メンバーはほぼ一貫して丸腰で活動を続けた。Fとは藤原のFであると同時に、Freedom、FriendshipのFを意味した。F機関は、インド独立を目指す「インド独立連盟 IIL」と連携し、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人を平等に取り扱いインド兵たちの共感を呼び、日本軍に投降するインド兵があとを絶たなかったという。そしてその中からモハーン・シン大尉からの申し出により「インド国民軍 INA」が産声を上げることになる。

そして1942年(S17年)2月15日、シンガポールは陥落し5万人のインド兵が捕虜となる。藤原機関長はその5万人を前に演説をする。

 

そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力を以て戦いとられたものでなければならない。日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の戦いのために忠誠を誓い、INAに参加を希望するものにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである

これを聞いた全インド兵は総立ちになって歓呼したと言う。その後インド独立の英雄チャンドラ・ボースがINA全軍の指揮を執ることになる。

 

藤原はその後インパール作戦を戦うことになる。この無謀な戦いと言われたインパール作戦は、日本軍がインド開放に尽力すると言うINAとの約束を果たすためでもあったのである。インパールマラリアに冒された藤原は病床で祖国の敗戦の報を聞く。そして英国軍によるINAに対する軍事法廷に、藤原は呼び出されていた。その時、デサイ博士が藤原に伝えた言葉が、上記のものである。

 

その後インド人による強固な抵抗運動の結果、英国植民地政府はINA全将校の釈放を決め、インドは悲願の独立を果たすのである。1947年8月15日である。


この注書きはhttp://dogma.at.webry.info/200612/article_7.html

http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/2006/03/post_a02f.htmlなどを引用している。


(10)
ジャワハルラル・ネルー 独立インド初代首相
          (貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~254頁)

 

チャンドラ・ボーズが指揮を執り日本軍と協力したインド国民軍INAの裁判で、弁護士として法廷に立ち、「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった。・・・彼等の日本との協力は、インド開放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。

 

(11)アリフィン・ベイ

      インドネシア・ナショナル大学日本研究センター所長

            (政治学博士、「魂を失った日本」未央社、57~65頁)

 

日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進と言う形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは他ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が大二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響が挙げられる。(中略)(日本は)目標達成の為にどれほど必死にやらなければならないかと言うことを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。

 

 

(12)ジョージ・S・カナヘレ

       ハワイ日本経済協議会事務局長(アメリカ、政治学者)

 

日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)
インドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

 

(13)ジョイス・C・レブラ女史 コロラド大学歴史学部教授

   (アメリカ、秀英書房「東南アジアの開放と日本の遺産」、256~257頁)

 

大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 

日本の戦後、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に抵抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということを、イギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍武器を手にし、訓練をつんでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固(ろうこ)たる意志に支えられていた。

(14)朴 鉄柱(韓国、平成2年1月逝去・68才、韓日文化研究所、昭和42年10月)

 

「ソウルから日本を眺めていると、日本がと言う字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心と言う字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることは出来ない。」

 

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”と言うのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争大東亜戦争---この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

 

大東亜戦争で日本は敗れたと言うが、敗れたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼等はこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った負けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、と言うのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたと言うが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼等は英霊として靖国神社護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

 

(15)ラダ・ビノード・パール 元・極東国際軍事裁判判事

   (インド、法学博士、昭和27年11月5日、広島高等裁判所での講演)

 

要するに彼等(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分等のアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間(昭和3~20年、東京裁判の審理機関)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったに違いない。・・・私は1928年(S3年)から1945年(S20年)までの17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。この中には、恐らく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であると言うことがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分等の子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけには行かない。誤られた彼等の宣伝の欺瞞を払拭せよ誤られた歴史は書き換えなければならない

 

1928(S3)秋に日本の満州経営を視察した米モルガン財団代表ラモントは、「満州は唯一安定し、日本の満州開発は中国の利益となっている。」とオールズ国務長官に報告している。またこの年「張作霖」が爆殺されている。

 

・・・・・・・・・

 

 

3) 大東亜戦争とは、植民地解放戦争であった。」ということが、これでおわかり頂けたと思うが、それだけではなかった。それには日本の存立がかかっていた。

 

 

4) と同時に日本存立のための自衛戦争でもあった。

 

しかもアメリカのダグラス・マッカーサーは、「日本のこの大東亜戦争を自衛のための戦争であった」と、米議会で証言しているのである。

(続く)