「これらの障害を受けながらも、この近代的土地調査は公正な土地・租税制度を確立することになり、隠し田を一掃し、伝統的な土地紛争に終止符を打った。また、五万分の一の地形縮図をも完成させることができたのである。これは、近代社会の社会的基盤を建設するのに大きく貢献した画期的な事業だったのだ。
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土地調査と地権の確立は、近代国家には欠かせない一大条件である。日本では400年前に、すでに太閤検地による土地調査と地租改正が行われていた。その後も、1873年(明治六年)の地租改正、1880年(明治十三年)の地租修正などにより、近代的な土地制度が確立されていった。」
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さて読者諸氏は、この土地調査が果たして公明正大なものだったのか、と幾分疑問を持っておられるかもしれない。事実、頓馬な朝鮮人は、これまた超頓馬な朝鮮の為政者の作った次のような法螺話を、信じているかもしれない。
黄文雄氏の「韓国は日本がつくった」の「第7章-飢餓の国を近代農業国に変心させた」の「2 土地強奪の歴史捏造」で、次のように述べている。
[両班こそが土地強奪の犯人-日帝による朝鮮半島の土地強奪は、「日帝七奪」のひとつとして教えられている。よく言われる例は、日本人が小高い丘にのぼってあたりを見渡し、土地を指差して手当たり次第に良田を奪っていったという話だ。
しかし、これはおそらく両班時代の土地強奪から連想して日本人に罪をなすりつけたものであろう。ダレ神父は『朝鮮事情』のなかで両班の土地強奪の実態を次のように述べている。
「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしに済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守礼(知事)は一人もいない」
戦後、日本人が韓半島で行ったといわれる土地強奪は、ほとんどがこの両班をモデルにしてでっち上げられた作り話である。そもそも、日本とは法治国家である。この大前提を、戦後の韓国知識人はどうやら忘れているようだ。
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今でも、中国人や韓国人などによる日本への不法入国が相次いでいるのを見ると、かれらの国外流出はまだ終わっていないのだろう。要するに、大航海時代以来、この人口移動ブームは水面下でずっと続いているのだ。
これをもって、なぜ日帝が朝鮮半島の土地を強奪したと言う論調になるのだろうか。土地強奪は、むしろ韓国人のお家芸である。終戦直後、焼け野原になった日本で、「第三国人」の朝鮮人がいかにして大都市の土地を強奪したか。その事実は、最近あまり語られていない。]
(日本人に土地を奪われたために、祖国を捨てて外国へ出ざるを得なかった、などと言うトンデモ話がある。)
ダレ神父の『朝鮮事情』の言葉は、'11/10/12のNO.170でも紹介したものである。この黄文雄氏の指摘だけで、「日帝七奪」何ぞがチャンコロ朝鮮人の作り話であることが判ると言うものである。
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日本の役人達は、誠心誠意朝鮮のことを思って、真剣に土地調査を行っていったことであろう。その誠振りが目に浮かぶと言うものである。なんとなれば朝鮮の覚醒が日本のためになり、且つ、朝鮮のためにもなると真剣に努力していったのである。
先に、土地調査は、1910(M43)年から1918(T7)年にかけて行われたと述べている('11/10/13, NO.171)が、1910年といえば日露講和条約(1905/9/5)から5年しか経っていない時期である。日本はロシアの復讐戦を警戒している時期でもあった。だから朝鮮を保護国とし、ロシアなどからチョッカイを出されないように、必死に朝鮮の独立(と言うよりも自立)と近代化を図っていたのである。だからこそ、誠心誠意、朝鮮のためを思って土地調査も行っていたのである。
ここら辺の事情は台湾でも同様で、台湾に派遣された日本人は台湾のために身を粉にして尽くしたのである。その結果次のような事象も現出しているのである。これは以前に小生が簡単にまとめたものである。 (略、2011.10.18、NO.174を参照の事)
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朝鮮に渡った日本の開拓農民は、悪戦苦闘の末その農業精神と農業技術を確実に朝鮮の地に根付かせていった。日本農業の集約農法や養豚、養鶏、養蚕などの多角経営など、改良農法、新式農法などは、朝鮮小作人のモデルとなり次々と朝鮮農業に普及してったとも、記されている。
朝鮮では屋外で仕事をする習慣が無かった女性達も、日本農民の老若男女の区別なく家族揃って朝から晩まで暗くなるまで農作業に勤(いそ)しむ姿に影響されて、少しずつ畑作業をするようになっていった、とも記されている。
この結果何が起こったかと言うと、朝鮮半島の人口が爆発的に増えたことである。朝鮮半島の人口増加は、先の'11/10/5のNO.165で示したが、第2次日韓協約を結んだ翌年の1906年の人口が980万人で、日韓併合後20年経った1930年の人口が1,968万人と、2倍以上の人口増加となっている。これは、人口が増える裏づけとなる食料が、日本人の指導などで増産されたことを意味する。
朝鮮での米の平均収穫量は反当り9斗のみで、日本の反当り平均収穫量(1石6斗)の半分程度しかなかった(日本農務省、韓国土地調査報告)。それなのに1906年から1930年の24年間で人口は2倍以上(980万人→1,968万人)に増えていたのだ。
』
さて次は朝鮮における「治山・治水」事業に関する事項だが、それに移る前にこの話をしたい。
それは「馬鹿で頓馬な歴史学者74人」の話だ。まず次の記事を参照願う。
【社会】
歴史学者ら74人「侵略明記を」 70年談話で声明発表
2015年7月17日 夕刊
戦後70年の総理談話に関する声明を発表する学者たち=17日午前、東京都千代田区で(北村彰撮影) 70年談話PK2015071702100161_size0 H m7T)
安倍晋三首相が今夏発表する予定の戦後七十年談話について、歴史学者や国際法学者、国際政治学者ら七十四人が十七日、声明を発表した。安倍首相談話で一九三一年の満州事変から四五年までの太平洋戦争について、日本の侵略戦争と明記しない場合、「過去への反省について関係諸国に誤解と不信が生まれる」として、首相に侵略戦争と明記するように求めた。
声明をまとめた代表の大沼保昭明治大特任教授(国際法)は東京の日本記者クラブでの会見で「総理は逃げるのではなく、国際社会で共有されている日本の戦争は残念ながら違法な侵略戦争だったと明確にすべきだ」と強調した。
同じく代表の三谷太一郎東大名誉教授(日本政治外交史)は安倍首相談話について「アジアの近隣諸国民との間の国際的コミュニケーションのあり方が左右される」と、アジア諸国との関係を意識した談話にする必要性を指摘した。このほか、声明には小此木政夫慶応大名誉教授(韓国・朝鮮政治)、毛里和子早大名誉教授(中国政治)ら学者や、現代史家の半藤一利氏、保阪正康氏らが名を連ねた。
声明では戦後五十年の村山首相談話や、六十年の小泉首相談話で使った「侵略」や「植民地支配」「痛切な反省」「心からのおわび」が継承されるべきかが論議される中、「重要な言葉が採用されなかった場合、関係諸国に誤解と不信が生まれるのではないかと危ぐしている」と強調。
その上で「安倍首相を含む歴代の総理は、侵略の定義は定まっていないという趣旨の国会答弁などを行っている」が、「日本による違法な侵略戦争であったことは、国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着している」と指摘した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015071702000252.html
こういう馬鹿が日本に居るから困るのである。こういう馬鹿に読ませるためにこのブログを書いているのであるが、こいつらはこのブログに書かれている歴史的事実・ヒストリーを全くご存知ないの見える。全く嘆かわしいことである。
「一九三一年の満州事変から四五年までの太平洋戦争」は、日本の侵略戦争だったと、こいつらは言っているようだが、それは全くの間違いである。ヒストリー・事実は全くの逆で、それは日本の防衛戦争だったのである。このことも後ほど述べるつもりであるが、今すぐそれを知りたいと思う諸氏に置かれましては、小生のブログ「支那事変の真相」(2013.2.1~2013.3.6)や2012.5.28,~の「第2次上海事変」をご参照願う。
こういう馬鹿な日本人は早く消えて頂きたいものであるが、このような偏見と虚偽・捏造には、我々まともな日本人は敢然と戦ってゆかなければ、我々の子孫に美しい日本を残すことは出来ない、と脅威を感ずるものである。
この74人の中にはかねがね尊敬の念をそれなりに抱いていた緒方貞子氏も名前を連ねている。一遍ににその幻想が剥げ落ちてしまった。彼女も一介の凡人であった。ヒストリーに関しては、全くの頓馬人である事が判明した、と言うことだ。
その馬鹿で頓馬な74人は『学者ら74人の「戦後70年総理談話について」声明全文 2015年7月17日20時11分(http://www.asahi.com/articles/ASH7K4CMVH7KUTIL027.html)』で確認願う。
さて本論に戻ろう。
(2) 治山・治水(2011.10.25,NO.179~)
『
先に、'11/10/12,NO.170でも治山治水のことを述べている。朝鮮の山河は、濫伐、討伐などで禿山だらけで崩壊状態であった。冬季の薪のため、さらには李朝時代には食料不足のため、火田民と呼ばれる焼畑をする農民が増え続けていた。そして根っこまで掘り起こして炭を焼いていたと黄文雄氏は指摘している。この炭は根炭と呼ばれ高値で取引されたという。
そのため朝鮮半島は一部を除いて、禿山だらけで洪水と旱魃が頻繁に起きていた。日本では子供に山を描かせれば緑の山を描くが、朝鮮では山は「茶色」に塗られているのが普通であった。
朝鮮総督府は1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査を始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)年から1918(T7)年にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施された、と先に説明したが、崩壊した朝鮮の山河を蘇らせる事業も急務であった。
朝鮮総督府初代総督である寺内正毅大将は、そのため、治山治水にもっとも力を入れた。黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」によれば、「朝鮮半島で実際に治水調査がスタートしたのは、1915年(大正四年)からである。具体的には、気象、水位、流量、改修築予定区域の実測調査などに着手した。これは10ヵ年計画の治水事業とされ、予算5000万円で帝国議会を通過した。しかし実際は、1928年までの14年間にも渉って実施されることとなった。
朝鮮半島の森林消失は、日帝が伐採して日本へ持ち去ったためとされることが多いが、史実は逆だ。」
朝鮮では大半の山は禿山と化しており、緑の山があったのは交通不便な鴨緑江や豆満江などにしかなかったので、とてもじゃないが、伐採して持ち帰ることなんぞは不可能なことであった。これなども卑屈な朝鮮人の捏造話である。
111025(179)
黄文雄氏によると、朝鮮総督府は、営林署を設立して、森林保護令、幼齢林育成、造林補助、病害虫駆除、森林組合や林業試験場の整備、地方官庁職員の増員などを次々と実施していった。そして1924(T13)年には、国有林区の調査事業が完了している。そしてその国有林を無償で漸次民有林としていったのである。けっして日本が森林を奪っていったのではなく、その逆で、次々と植林を進め森林を創っていったのである。
そして[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html]によれば、「朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人当たり約25本と言う膨大な数である。
内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている」と記されている。
そして植林による禿げ山対策とともに、1907年よりソウル近郷の砂防工事から始まり、全国規模で実施された。1919年には朝鮮半島の大河川の流域調査が実施され、1933年から1942年の10年間で、15万ha以上の砂防工事が実施され、砂防のために5億6千万本を植栽し、工事の総額は4,274万4千円を費やし、工事人員は延べ5,385万4千人と言う大事業となったのである。
そのため半島恒例の洪水は減少し、水田面積も1910年の84万7千町歩(約84.7万ha)から時代は上記の年代よりは早いが、1928(S3)年ごろには162万町歩(約162万ha)に倍増したのである。だから米も増産され朝鮮の人口も倍増できたのである。(黄文雄氏、「韓国は日本人がつくった」より)
この河川工事の過程で、朝鮮総督府は大規模な水力発電所を建設し、総合的な国土開発を推進していったのである。
』
(続く)