邪馬台国とはなんぞや?(19)

更に同書は続く。

 

すると、倭国と韓国は、海峡を挟んで、緊密な交流があった様だが、卑弥呼と辰王の関係は、どうだったのか。卑弥呼の死の際は、殉葬と言う弥生時代には、一例もない扶余系、北方系の葬儀だったようだが。また馬韓と同じ木棺墓(有棺無槨)だ。すると、墓制や宗教が似ており、卑弥呼と辰王は、血縁、親戚関係でもあったのか。だが、どちらも魏には、オジャマだったようだ。すると、何らかの関係を想定した方が、理屈が合いやすいが。野心的な歴史研究者にとって、間違いなく、ここに「大鉱脈」がありますよ。やってみなはれ。

 

 

これらの紛争は、当然地方の刺史などに出来る事柄ではない。中央の、つまり司馬懿の承認、あるいは指示で行われたことである、と考えるべきである、と同書には書かれている(330頁)。

 

一体どんな鉱脈が隠れているのであろうか、興味深いものがある。

 

何故卑弥呼や辰王を亡き者にする必要があったのか、全く釈然としないのであるが、同書でもその疑問には回答がない。きっと司馬懿がらみの何らかの理由があったのであろう。陳寿は忖度して、書けなかったのであろうが、卑弥呼の死と言う倭国だけの事象かと思っていたら、馬韓国にも同様な事象があったと聞いて、ますます不可思議である。

 

司馬懿は魏の大将軍で皇帝に次ぐ地位の人物である。何らかの権力闘争のためなのか、では何故卑弥呼や辰王を抹殺する必要があったのか、ピンとこない。きっと司馬懿は、呉との対決に倭国や韓国から兵を動員したかったのではなかったのかな、とも勘ぐっている。それには卑弥呼や辰王は邪魔であった、と言う事か。

 

 

さて、孫栄健氏の「邪馬台国の全解決」も、その大半の紹介も終わりに近づいてきた。なんとなく邪馬台国の全貌が、わかったのではないでしょうか。否、わからないか?

 

ただ日本神話との関係や古事記などとの関連が、クリアになれば、それこそ全解決なのだ。

 

日本神話や古事記と言えば、当然それは、「天照大神」と「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」がらみの話である。天照大神須佐之男命も、姉と弟の関係である。卑弥呼難升米との関係も、姉と弟の関係であった。

 

同書では、次のように表現している。

 

東洋思学舎の白鳥庫吉は、明治四十三年に『倭女王卑弥呼考』の中で、『魏使倭人伝』の「卑弥呼」に関する記事の内容と、『古事記』、『日本書紀』の「天照大神」に関する記事内容とを比較し、卑弥呼の死の前後の状況と、天岩戸の神話がよく似ていることを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能わざるべし」と言う。

 

卑弥呼・アマテラスと難升米・スサノウが、姉と弟であれば、『古事記』と「倭人伝」は、綺麗にぴったりと重なる。もちろん偶然ではない。

 

すると、アマテラスの名は卑弥呼であり、スサノオの名は難升米ナズメ、岩戸から出た新アマテラスの名は、壱与いよ、十三歳だ。

 

とも述べている。そして古事記では、岩戸の後のアマテラスは、常に高御産巣日神タカミムスビノカミと一緒に登場すると言う。

 

とすれば、この高御産巣日神タカミムスビノカミは、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」の掖邪狗ではないのか、ひょっとしたらこの掖邪狗ヤヤコは、 壱与のお父さんかも知れない、とも述べている。

 

 

先にも述べたが、掖邪狗ヤヤコは難升米ナズメと同格になっているようにも見える。だから、「因って台に詣り、(その結果宮廷に到着し、)」と書かれている様に、天子の居所・台にまで詣って貢物を献上している。このように宮殿にまで呼ばれるとは、破格の待遇なのだ。

 

 

倭人伝を今一度振り返ってみると、そのことがよくわかる。

 

まず、243年(正始四年のこと)12月には倭王(難升米)が、八人を魏に送っているが、その中に

掖邪狗ヤヤコらがいる。ただし、「伊声耆(イセキ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人・・・」と掖邪狗(ヤヤコ)は二番手となっているが、印綬を賜っている。

 

その四年24312月のこと)倭王、また使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木フ ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

 

 

しかし 壱与いよの代になると、伊声耆(イセキ)は居なくなり、掖邪狗(ヤヤコ)が筆頭の地位となっている。

 

先にも紹介していたが、「倭人伝」の最後の文章がそれだ。

 

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

 

 

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」と、公式の爵位を付けて表現している。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(18)

10.卑弥呼以て死す。

 

247年に、魏からの 詔書、黄幢が難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡している。

 

魏(の新帝の補佐役の司馬懿)としては、卑弥呼親魏倭王にしたものの難升米の実力を評価して、難升米を信頼できる東夷の王と考えたようだ。その方が辺境防衛には役立つと感じたのであろう。

 

当時としては魏は、南の呉とは仲が悪かった訳で、その意味でも東夷の倭国をてなづけておきたかったのではないのかな。

 

240年には既に難升米を倭王と認めており、その倭王・難升米は243年には、大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし朝貢している。大夫伊聲耆ではなくて掖邪狗に率善中郎将と印綬を授けられている。彼らは奴国などの三十国のうちの国の王なのであろう。何故か掖邪狗を持ち上げている。

 

しかし難升米を倭王と認めて、卑弥呼を亡き者にした結果、倭国は又大いに乱れてしまった。これでは倭国は呉に対する押さえにはなりそうもない。

 

卑弥呼の死後247年には、倭国は内戦状態となってしまい千余人が殺されている。「露布の原理」に従えば、百余人となるが倭国としては大混乱である。仕方がなく卑弥呼の一族の娘・十三歳、壱与(又は臺=台与)倭国王に据えると国中がようやく静まった。

 

そして先の掖邪拘等二十人で魏からの使い・張政を送り届けながら、洛陽に詣でている。「倭人伝」の最後の文章がそれだ。

 

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

 

 

因って台に詣り、(その結果宮廷に到着し、)」と書かれているので、天子の居所・台にまで詣って貢物を献上している。これが「魏志倭人伝」の最後の文章となっている。

 

同書には、次のように書かれている。

 

 

だが、単なる東夷からの使者が皇帝の宮殿に呼ばれるとは、おそらく破格の待遇の印象だ。宴席が設けられ、大量の下賜品があったはずだ。

 

 

ここには倭王・難升米への言及がない。きっと「更に男王を立てしも、國中服せず。更更(コモゴモ)相誅殺し、当時千余人を殺す。」と言う戦争状態の中で、難升米は失脚してしまったものと思われる。

 

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」は、「景初二年三年が正しい?239年か六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、・・・」と同じ表現である。

 

難升米 なずめ が掖邪狗 ややこ に置き換わっていることを見ると、同書では、「すると、八人の倭の大夫つまり率善中郎将たちが、つまり八人の「王」たちが、卑弥呼の死の前後に、抗争を起こしたと仮定する。卑弥呼の死後の「男王」で伊都国王の「倭王」難升米なずめは、敗死か逃亡した。伊声耆(イセキ)も負け組だろう。つまり、おそらく掖邪狗(ヤヤコ)が、この権力闘争の勝利者なのだ。そして、おそらく新女王壱与いよの後見人だ。」と書いている。魏としては、当時の異民族対策や呉に備えなければならず、やむを得ず倭国の政変をいわゆる 事後承認したことになる。

 

難升米の朝貢の様子はきちんと年月が記載されているが、掖邪狗の時には年月の記載がない。この倭国での政変は、司馬懿にとっては全くの計算違いであったのであろう。司馬懿は、陳寿が務めている晋の皇帝の祖父にあたる人だ。陳寿としては悪しざまに書ける訳がない。だから陳寿は、忖度して記述していた筈だ。

 

 

さて面白いことに、倭国で、卑弥呼の死のそれに伴う内戦が発生しているころ、朝鮮でも同じような事態が発生していた。

 

即ち、後漢書の「韓伝」には、「三韓はいにしえの辰国、辰王は、悉く三韓の地に王なり。三韓の王は皆馬韓の血筋である。」と書かれているのである。

 

246年頃 帯方郡の統治者が、辰韓の領土の一部を、昔楽浪郡に属していたからと言って、楽浪郡に分け与えてしまった。これで韓側は怒り馬韓の勢力が帯方郡を攻めた。そのため帯方太守弓遵楽浪郡太守劉茂は兵を起こしてこれを討伐した。しかし弓遵は戦死したが、二郡はついに「韓(辰王)」を滅ぼしている。

 

その翌年の247年には新たに帯方太守となった王頎(キ)が、倭国に張政を派遣して詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡している。そして卑弥呼が死んで、男王が立つが内乱となっている。

 

と言う事は、同時期に魏側の毌丘倹王頎等が関係して、倭国で共立された女王卑弥呼が死んだように朝鮮でも共立された「辰王」が、魏との紛争で、「遂」に「滅した」のだ、と同書には疑問を持って記載されている(329頁)。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(17)

    人物  行為   行為  行為 対象 
(1)
一大率-特置 -検察 -諸国(国中)
(2)
男弟  -佐   -治国 -国(倭国

 

 

この(1)と(2)は、同じことを表現しているのである。即ち同一人物なのである。

 

即ち、卑弥呼が霊的権力を行使して宗教的に倭国邪馬台国を導き、男弟の伊都国王が俗的権力(政治権力)を発揮していたのである。

 

しかも「治す」という言葉は、通常は一般的に王都を意味する言葉だと言う(同書278頁)。だから伊都国王は、三十国の一国ではあるが、親魏倭王卑弥呼の男弟であることでもあり、邪馬台国の政治的な王として振る舞っていたのであろう。魏使にはそのように見えたはずだ、だから「常に伊都国に治す」とあたかも伊都国が邪馬台国の王都であるような書き留め方をしたのではないのかな。

 

だからこの魏志倭人伝の「王」「女王」「倭王」「倭女王」と言う字句は、それぞれ分けて考えなくてはならないのであろう。

 

先の「女王国より以北・・・」の文の後半には、「王」と「女王」とが明確に分けて記載されている。

 

即ち、「捜露(そうろ)し、賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」とあるように、伊都国の王(大率)が物品を検査して、女王に届けるのである。

 

しかも、女王を「見ることある者少なく」、更に伊都国は「郡使の往来して常に駐まる所なり。」とあるように、女王卑弥呼の影は薄く、「王」即ち伊都国王が外交の前面に出て倭王として振る舞っているように書かれている。事実そうである。

 

さてここら辺の事情を明確にするために魏国と倭国との交渉・政治記録を、時系列に並べてみよう。

 

 

236年頃 新任幽州刺史毌丘倹北方騎馬民族烏丸王を朝貢させる。

237年   毌丘倹、遼東の軍閥公孫淵と戦うが、失敗する。

238年   魏の将軍司馬懿が、公孫淵を討つ。楽浪郡帯方郡も接収する。

239年   魏明帝36才で崩御8才新帝が即位、司馬懿が新帝の補佐役に就く。

239年   6月、倭の女王、大夫難升米(なずめ)を遣わし郡に詣(いた)り、朝献せんことを求む。

239   12月、魏帝詔書を発し卑弥呼親魏倭王の金印紫綬、難升米に銀印青綬を下賜。

240年   1月、倭国使節が正月参賀に参列。(難升米がそのまま越年したものと思われる。)

240年   梯儁等が詔書印綬倭国に持ってきて、倭王に拝仮倭王、使者を送り感謝する。

243年   (12)倭王大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし、掖邪狗等は率善中郎将と印綬を受ける。

245年   魏は難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜し、帯方郡に送る。

247年   太守が王頎に代わり、倭、載斯烏越等を派遣し狗奴国との戦いを報告。魏、張政等

       派遣し詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡す。

247年   詔書、黄幢を難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡する。(以死

247年か 男王が立つが、国中納得せず千人余が殺される。

247年か 卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)、年十三を王とすると国中が落ち着く。張政等は檄文で

       告諭した。

247年か 壱与は掖邪拘等20人で張政等を帯方郡に送り届ける。

 

これを見ると、

 

239年では卑弥呼親魏倭王としているが、

240年には卑弥呼ではなくて、倭王詔書印綬を拝仮している。

243年は倭王と表現しており、

245年には卑弥呼ではなくて、難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜と表現している。

247年も難升米に直接、詔書、黄幢を拝(恭しく)仮(権力付与)している。直後に女王卑弥呼死す。

 

240年には、既に倭女王ではなくて倭王に拝仮と表現されているので、難升米は司馬懿とその正月参賀の席で意気投合し信頼を得たものと思われる。だから女王ではなくて、倭王または難升米に拝仮という表現になったのではないのか、と同書は推測している。

 

しかも「卑弥呼以死」と言う表現は、原因があってその結果(以て)死んだと言う事であり、更には「以て」とは行ってはならないことを行った場合に使われる表現だとしている(同書305頁)。

 

しかも23912月に詔書を発しているが、その全文がこの「魏書」「倭人伝」に採録されている。全文が採録されると言う事は極めて珍しく、三国志ではこの倭人伝の詔書しかないのである。

 

これも新帝を補佐している司馬懿が書いたものであるからであり、陳寿の属している晋の現皇帝の祖父である司馬懿の文章であるからこそ、陳寿は忖度して全文を載せたものであろう、としている(同書310頁)。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(16)

塚田敬章氏後漢書倭伝」から引用する。

 

 

後漢書倭伝」 (宋)范曄著(424頃)                  塚田敬章  

1、後漢書倭伝(原文、和訳と解説)
2、後漢書倭伝の構成要素
3、後漢書倭伝の魏志修正箇所

1、原文、和訳と解説

倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gokan_wa/gokanzyo_waden.htm

 

 

従って同書では次のように結論付けている。

 

 

倭国の全諸国にも王様がいたとの記述を認めると、どうしても、大率=王だ、「一大率は倭国三十の諸国の王のうちの一人」との結論になる。「女王を共立」した諸国の王(下位の王)のうちの一人となる。「後漢書」のいう「大倭王」は一人だが、「王」は三十人だ。

 

 

しかしながら、

女王國より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す國中において刺史の如きあり。、使を遣わして京都(洛陽)帯方郡・諸韓國に詣り及び、郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」と書かれているので、この伊都国の王(大率)には相当の権限があったものと思われる。

 

大率・本率一人とは、

 

(1) 女王国以北に置かれた。伊都国に治す、

(2) 諸国を検察した。諸国は畏憚している。倭国中の刺史と同じ。

(3)倭国側の外交窓口で、使節の往来を監察し持ち物検査をする。

(4) 女王国より派遣されている。

 

 

先ず刺史とは、どんな役目をするものであろうか。

 

同書では、刺史とは、

 

行政監督官であると同時に、軍の最高指揮官でもあった。即ち、軍政長官であり、今で言う軍閥のトップとしての独裁者のような存在であったのであろう、としている。(同書261頁)

 

倭国の窓口となっていた帯方太守に転勤してきた王頎(おうき)やその上司であった幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)と同じ役柄と、魏使は、伊都国王を看做したわけだ。

 

しかも伊都国に治して諸国を畏憚させていた大率(だいすい)は、女王卑弥呼の弟であり、卑弥呼の威光もあって卑弥呼を佐(たす)けて国を治めていた訳である。

 

名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。

 

当然卑弥呼を佐けて国を治めていたこの男弟と、伊都国に治す大率は、同一人物とみて間違いがなかろう。もし違う人物であれば、相当権力闘争などの混乱が発生した筈なので、そのような記述もなく淡々と陳寿は記述しているところを見れば、当然同一人物として、間違いなかろう。

 

このような表現の違い、「事同じくして文異なる」(文の違え、微言大義)こそが、当時の筆法の主流だったのである、として同書268頁には対比表を載せている。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(15)

9.一大率を置き諸国を検察せしむ。

 

さてここで邪馬台国関係の位置関係をおさらいしておこう。

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まあ異論は多々あると思われるが、邪馬台国とは北九州から朝鮮半島にまたがったあたりに存在していたとして、先ず間違いがなかろう。とりあえずはこんな感じであろう。

 

さて、

 

女王國より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。」 と倭人伝には記載されているこの一大率とは何者なのか。



さて五代十国時代に編纂された「旧唐書」や次の宋の時代につくられた「新唐書」にも、日本のことが記載されている。

 

ちなみに中国の歴代王朝は、次のように変遷している。

 

紀元前500年頃~ 春秋戦国時代

紀元前250年頃   秦

紀元前200年頃~ 前漢

紀元前後       新

紀元後         後漢

紀元200年頃~   三国時代(魏、呉、蜀)

紀元300年頃~   西晋東晋

紀元400年頃~   南北朝

紀元600年頃    隋

紀元600年頃~   唐 → (飛鳥・奈良・平安時代

紀元900年頃~   五代十国

紀元960年頃~   北宋南宋

紀元1280年頃~  元

紀元1400年頃~  明

紀元1650年頃~  清

紀元1910年頃~  中華民国

紀元1960年頃~  中華人民共和国



まあこの年次はかなりアバウトなものであるので、そのつもりで。

 

この「旧唐書倭国日本国伝」には「魏志倭人伝」と同じ表現で記載されているが、「新唐書・日本伝」には、次のように記載されている、と同書には書かれている。

 

本率一人検察諸部・・・」(本率ホンスイ一人を置き、諸部を検察させる・・・その官は十有二等



もちろん新唐書・日本伝」のこの表現は、奈良時代の官制を表現したものではあるが、「魏志倭人伝」の表現を踏襲したものであろう。

 

即ち、「魏志倭人伝」⇒「旧唐書倭国日本国伝」=「新唐書・日本伝」と言う繋がりとなっているので、「新唐書・日本伝」は「旧唐書倭国日本国伝」を解説したものであり、「旧唐書」≒「魏志倭人伝」と同じ表現なので、「魏志倭人伝」=「新唐書・日本伝」と同じ意味合いとなるのであろう。

 

と言う事は、「一大率(倭人伝)」=「一大率(旧唐書)」=「本率一人(新唐書)」と言う言語解釈となる、のである。

 

即ち「一大率」とは、三文字で一つの役職を意味するものではなくて、複数の大率(本率)の中の一人、と言う事を意味するのである。

 

 

大率・本率(だいすい・ほんすい)とは地方の有力者を意味する言葉であるが、この魏志の中では次のようにも表現されている。

 

渠帥(きょすい)、豪帥(ごうすい)、大帥(だいすい)、長帥(ちょうすい)、魁帥(かいすい)、などであるが、いずれも意味は同じである。

 

大率と同じ発音の大帥と言う言葉がある。中国の古典の一字一句を考証する学問に訓詁学と言うものがあり、清朝の時代に隆盛を極めたと言われている。それによると、は全く同じもので、同音同義で自由に併用されていたと説明されている、と言う。

 

現在の言葉では元帥(げんすい)と言う軍隊での最上位の役職・称号があるが、その帥と言う字は率は全く同じに使われてよいことになっていたのである。

 

倭人伝の言う大率とは「大人」と同じ意味で、地方の王なのであろう。しかし「親魏倭王」の王とは、同格ではない。

 

中国で言う異民族の階級区分では、「国王、率衆王、帰義候、邑君、邑長」の序列が存在していたと言うので、「親魏倭王」は倭国全土の王様で、率衆王は地域的な下位の王であったのであろう。

 

 

後漢書倭伝」にも、倭国には三十ほどの国があり、それぞれの国は皆王と称していた、と記されているから、大帥(大率)は夫々の国の王(率衆王)なのであろう。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(14)

208Pb/206Pbを横軸の左、207Pb/206Pbを横軸の右側に、207Pb/204Pbを縦軸の上に、206Pb/204Pbを縦軸の下にプロットする四軸のレーダーチャートで示すことにより、菱形の鉛同体比のチャートが出来上がる。

 

このレーダーチャートは、産出地ごとに異なった菱形を示すことになる。同じ形状の菱形であれば、同じ産出地の青銅から作られてもの、と判断できるのである。

 

イメージ的にこれらのチャートを次の示すと、こんな風になる。

 

これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっていることが判る。

 

 

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これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっている。

 

三角縁神獣鏡は中国鏡とは全く異なったチャートを示していることから、従って、中国で製作されたものではないことが判る。

 

しからばどこで作られたのか。当然それは倭国である。神岡鉱山でとれた鉱物だけがこの菱形の値を示すと言う。きっと神岡鉱山から産出された鉱物を使って、三角縁神獣鏡は作られたものであろう。

 

卑弥呼が鏡を下賜されたのは景初二年三年が正しい?239年か十二のことで、三世紀半ばのことである。しかも三角縁神獣鏡四世紀の古墳からしか出ていない、とも記述されているので尚更だ。

 

もう一つ鏡を吊るすために紐を通す穴の形状が、三角縁神獣鏡は殆どが長方形か方形であり、通常の鏡と異なっている、と言われている。通常の鏡は、紐口は円や半円状で鋳バリなどはないが、三角縁神獣鏡はこの点非常に異なっていることになる。

 

従ってこの三角縁神獣鏡は、紐につるすことは想定されていなかったものと、推定される。と言うのも弥生から古墳時代への変革期に、人の死後の平安を祈願して墓に埋葬されるためだけに、製作されたものではないのかとも考えられている。このことを、この論考は、次のように表現している。さもありなん。

 

この鏡は死後の不安を解消してくれる。この鏡の鋭くとがった三角縁が現世あの世の結界となり、現生の未練と俗念を断ち切りあの世へと入っていく。そこには山(鋸歯文)や川(複波文)の試練があるが、この鏡があれば軽く越えることが出来る。するとそこは待望の神仙世界で神像がやさしく迎え、獣像とともに死者の安穏を約束してくれる。三角縁神獣鏡ではこの世界観が一目でわかり、数多の鏡を押しのけて葬儀の必需品となり古墳から出土することになる。

 

だから三角縁神獣鏡倭国独特の鏡であり、これに反して卑弥呼の鏡は、九州北部を中心に出土する「内行花文鏡・方格規矩鏡」などの漢鏡である、とこの論考は結論付けている。

 

但し、小生にはよくわからないが、直径46.5cm、円周は46.5×3.14146.01cmものでかい青銅鏡は中国や朝鮮では出土していないと言われているので、日本製の鏡かも知れない。稲作にせよ、鉄器や青銅器にせよ、倭国では相当高度な技術や知識を弥生時代初めから有していたようなので、この内行花文鏡の鉛分析も知りたいものだ。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(13)

8.銅鏡百枚と三角縁神獣鏡

 

魏志倭人伝には、後半の終わりから1/4程戻ったところに「今、・・・銅鏡百枚・・・賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜えり」 と記載されている。鏡は卑弥呼の好物だったようだ。

 

明治の頃から三角縁神獣鏡が盛んに出土したため、これが「卑弥呼の鏡」ではないかと言われていたが、今では既に560枚も出土していると言うので、明らかに「銅鏡百枚」の量をこえてきている。

 

これらの事実を見ても、これら三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」ではないことは、容易に推測、というよりも断言できる。

 

ここに「宝島社」の「古代史15の新説―新視点で読み解く古代日本の論点(2016.12.15発行)と言う雑誌がある。

 

そのなかに藤本昇氏の「同位体比から卑弥呼の鏡を考える」と言う論考が載っている。これは氏の「卑弥呼の鏡」(海鳥社)からの抜粋まとめであるが、三角縁神獣鏡は、その成分から漢鏡などではなく、倭国製の国産品であると結論付けている。

 

ここでは、その内容を紹介しよう。

 

 

先ず銅鏡は、銅と錫の合金である、と言う事はよく知られていることと思う。

 

しかし地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウラントリムThが含まれており、長い年月とともにThは放射壊変により鉛の同位体へと変化すると言う。

 

U,Thには、238U235U232Thという種類があり、それぞれ放射線を出すことにより(放射壊変と言う)安定した原子核に変化すると言う。これを最終核種と言い、それぞれ206Pb207Pb208Pbと呼ばれる最終核種・同位体となる。

 

もう一つ鉛同位体204Pbは、地球が生成された時の存在量のままで変化しないものである。

 

従って青銅に含まれるこれら鉛同位体の量(具体的には同位体の比率)を測り、異なる青銅が同じ比率を示せば同じ生成過程を経た鉱物であると判断できる訳である。即ち同じ鉱床から産出されたものとみなすことが出来る。

 

このことにより漢鏡や三角縁神獣鏡の鉛同位体比を分析すれば、それぞれの産出地が推定できるのである。

 

詳しくは次のURLを参照願う。

 

 

 

同位体比分析による文化財の産地推定法のご紹介

201611

 

はじめに

古文書や古記録等の史料から、歴史が紐解かれることにより、私たちは過去の出来事を知り、そして多くのことを学んできました。

近年では、様々な歴史資料の材質や産地・年代などを明らかにするために、史料を読み解くだけでなく、科学的手法を用いた解明が取り入られるようになり、新たな事実も徐々に明らかになってきました。  


その科学的手法の中に、「同位体比法による原料産地推定」というものがあります。これは、鉛同位体比が鉱山毎に異なるということを利用して、金属材料中に含まれる鉛の同位体比測定

を行い、原料の産地を推定するものです。産地の推定ができれば、文字の記録のない時代に行われた文化交流や物質・人々の移動を研究する上でとても重要な情報が得られます。


本法は、1965アメリカで始まり、日本では1967年から取り組まれ、約50年もの間、平尾良光氏(現別府大学客員教授)を中心に研究されてきました。その測定に使用する「表面電離型質量分析装置Thermal Ionization Mass Spectrometry、以下TIMSと記載する)」が昨年当事業所へ測定技術と共に移管され、当事業所の新たなメニューに加わりました。


今回は、この「鉛同位体比分析」について以下にご紹介します。

 

同位体比法の原理

地球の誕生時には、中性子数の異なる同位体組成は元素毎に一定の値で、地球上どこでも同じであり、時間の経過による変化はほとんどないとされています。しかし、例外としていくつかの元素は変化します。鉛(Pb)は、そのひとつです。鉛の同位体は主に204Pb206Pb207Pb208Pbの4種が安定して存在していますが、これらの内、206Pb207Pb208Pbは、それぞれ238ウラン(U)、 235U232トリウム(Thから、放射壊変という放射線を出すことにより安定な原子核に変化して得られる最終核種になります(Pb放射線を出さない安定核種です)。


地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウラン(U)、トリウム(Thが含まれており、長い年月と共にUTh放射壊変により鉛の同位体へと変化します(図1参照)。そのため、238U235U232Thは減少し、206Pb207Pb208Pbは増加します。


204Pb
のみは地球が生成された時の存在量のままで変化しません。地殻変動などの影響で、鉛が濃縮し、鉛鉱床が生成すると、ウランとトリウムは排除され、それ以後同位体比は変化せず、安定して存在することになります。つまり、地球誕生時に岩石中に含まれていた鉛の量とウラン、トリウムの量、共存時間によって、鉛の同位体比は地域によって異なる値を示し、それぞれの鉱山の固有値となるというわけです1-3)


考古遺物の原料に関する産地推定の研究は、以上のような原理を応用し、鉛鉱床あるいは産出地域の鉛同位体比との比較により産地を推定できるようになりました。

 

同位体比測定法

遺物中の鉛同位体比の測定は、遺物である金属材料から鉛を単離することから始まります。当事業所は、平尾先生の方法を踏襲していますので、電気分解法(電着法)にて鉛の分離精製を行っています。分離して得られた鉛はリン酸及びシリカゲルと共に、レニウムフィラメント上に載せ、表面電離型質量分析装置MAT262に導入します。鉛は、通電加熱により気化、イオン化させて、質量分離を行います(図2)。測定する質量は、鉛同位体204Pb206Pb207Pb208Pbの4種です。これら同位体は、同時に測定しないと精密な比として計測できないため、検出器は質量を順番に測定するシングルコレクターではなく、複数台の検出器で、上記4種の同位体を同時に測定するマルチコレクター型の装置を使用する必要があります。

 

同位体比測定値の表記

馬淵久夫氏・平尾良光氏らにより、弥生時代古墳時代から古代にいたるまでの日本で出土した中国・朝鮮半島系の青銅及び日本で作られた青銅資料、現代の日本、中国、朝鮮の鉛鉱石を系統的に分析した結果、208Pb/206Pbを縦軸、207Pb/206Pbを横軸にしたa式図図3)、
207Pb/204Pb
を縦軸、206Pb/204Pbを横軸にしたb式図図4)で図化すれば、グループ分けが有効に行えることが見出されました。a、b式図中に明記したA~Dの4つの領域は、東アジアの鉛同位体比分布を表し、出土した鉛を含む全ての遺物である銅製品、ガラス玉などの鉛同位体比測定結果から、原材料の産地を推定できるようになりました。

 

おわりに

以上のような測定以外にも鉄・非鉄などあらゆる遺跡出土遺物や文化財の分析を、尼崎事業所、八幡事業所及び富津事業所にて行っております。最先端の分析技術が歴史解明の一助となるよう、お手伝いさせていただきます。

 

お問い合わせ窓口

尼崎事業所 解析技術部 渡邊 緩子

TEL: 06-6489-5753

FAX: 06-6489-5958

E-mail: watanabe-hiroko2@nsst.jp

<参考文献>

1馬淵久夫・富永健、「考古学のための化学10章」東京大学出版会1981

p.129-178.

2国立歴史民族博物館、「科学の目でみる文化財」、1993p.207-221.

3平尾良光編、「古代青銅の流通と鋳造」鶴山堂、1999p.31-39.

 

https://www.nsst.nssmc.com/tsushin/pdf/2016/90_3s.pdf

 

 

 

さて、藤森昇氏の論考に戻るが、

 

これらの鉛同位体比は科学機器の発達によりやく40年前から測定できるようになったと言う。

(続く)