続・次世代エコカー・本命は?(41)

案の定、早速マルティン・ヴィンターコーン社長は牙をむいたのだ。しかしヴィンターコーンはスズキを甘く見ていた感がある。

 

 

スズキと提携後、手のひらを返したVW

2016/01/07

ナカニシ自動車産業リサーチ 中西孝樹 氏

 国内軽自動車トップのスズキは6年前、「次の30年の道筋」をつくるための一手として、独フォルクスワーゲンVW)との包括提携に踏み切った。だが、「イコールパートナー」を掲げるスズキの思いに反してVWの狙いスズキの支配だった――。提携後すぐに生じた不信、対立、そして提携解消をめぐる係争の裏側に迫る。

 スズキがVWとの電撃的な包括提携に向かわなければならなかった理由は、前回の『スズキの大誤算、「VWとの提携」を求めた理由』をご覧いただきたい。

"最強のタッグ"のはずが・・・

鈴木修会長 (撮影:佐々木孝憲)

 GMの破綻劇は修にとっては受け入れがたい悲劇であり、経営者としての長年の信頼関係が、資本の論理に押しつぶされたできごとだった。GMとの資本関係が切れ、修は急いで次の提携先を探しに入った感は否めない。

 79歳にさしかかり、会社経営の仕上げを急ごうとする年齢的な焦りもあったのかもしれない。修は、すでに上場企業の実力経営者のなかでは最も高齢なうちのひとりになっていた。

 スズキの社員も、すぐに次を探すことが当然だという雰囲気にあった。そこに絶好のパートナーに見えるVW現れ、スズキは一気にこの提携を進めていく気運となった。

 修がまだ63歳だったころ、VWとスズキは欧州事業で一度提携を試みたことがあった。当時のVWの取締役会会長であったカール・ハーン博士と修は非常に親しくしており、そのころからVWの経営体制は大きく変わっていたが、修にとってのVWは、経営のノウハウを学んだ親しい自動車メーカーでもあったのである。

 スズキとVWは、双方の自主性を尊重したイコールパートナー(対等関係)を約束した。出資比率を20%未満に抑え、関連会社としてVWの持分対象となることを避けた。さらに、VWから受け取った出資金の半分をVW株保有資金に振り向け、スズキは持ち合い関係を演出までした。対等関係は、この提携の基本精神であった。

 スズキ側の狙いはVWの持つ環境技術にある。ディーゼルエンジン技術ガソリン・ハイブリッド技術長期的な先進・先端技術と、大きく3つの目的があったと考えられる。一方、VWは弱点の新興国での存在感を高め、スズキの低コスト技術を学ぶのが狙いであった。

 スズキ・VWの提携が世界の競争状況におよぼす影響の大きさは、誰の目にも明らかだった。両社を合計した世界販売台数は1200万台と、最大の自動車連合が生まれる。中国ナンバー1VWとインドナンバー1のスズキ。先端技術とプレミアムブランドに強いVW。低コストと低価格ブランドのスズキ。最高の補完関係を生み出せる関係に見えたのである。

 スズキとVWは、両社ともにファミリー企業である点も共通していた。カリスマ的なトップが、長期にわたり会社経営の中枢を支配していたことでも一致している。VW監査役会会長のフェルディナンド・ピエヒ博士は、かの有名なポルシェ博士を祖父に持つ。1993年以来、VWのトップに君臨し、独善的なワンマン経営者として名を馳せていた人物である。

 

「ハート・ツー・ハート」を貫いた修の交渉

 提携に到達するスピード感には誰もが驚かされた。GMグループがスズキ保有株式を完全に売却し、資本提携を終わらせたのが200811。そこからわずか1年で新たな包括提携(2009/12)にこぎつけるのは、異例の早さであった。

 GMとの事業提携で最後まで残っていたカナダにおける合弁生産会社、カミ・オートモーティブ(CAMI)からの撤退を決定したのが、VWとの提携発表のわずか1週間前のことであった。師匠と仰いだGMに対する信義を重んじ、関係をきれいさっぱり円満に解消し、義を尽くしたうえで、次の提携を進めたのだ。

 スズキとVWの接触は、GMとの資本提携が解消された直後の2009年の早い段階から始まっていた。その年の7月には、経済産業省から着任したばかりの当時常務役員(現副会長)の原山保人を連れ立って、修はVWとの提携交渉のために渡欧している。

 原山は、早世した元専務の小野と通商産業省(現経済産業省)の同期の桜であった。元資源エネルギー庁長官の高原一郎とともに、1979年入省の三羽ガラスと呼ばれていた。

 スズキの集団指導体制の一翼を担う人材として、小野という有力な後継者を失った修に強く請われ、原山は2009にスズキに入社した。彼の初仕事がVWとの提携交渉であり、紛争から決裂、ロンドンでの国際仲裁裁判所での係争まで、一貫して関わり続けたキーマンである。

 そのころ、ドイツのメディア発で、両社に動きがあるとの憶測報道も出始めていた。

「火のないところに煙が立った」

 修は噂を一蹴、しゃあしゃあと報道陣やアナリストを煙に巻いていたものだ。GMとの事業提携関係をきれいに清算したうえで次なる提携構築に進むこと、VWとの交渉情報が事前に外部に流出するのを厳格に管理すること。このふたつが、修の頭にはあった。浪花節を重んじ、修の信条でもある「ハート・ツー・ハート」を貫いた提携交渉であった。

 「ハート・ツー・ハート」とは、1983、インドでの国民車の基本契約の記者会見で発された修の名言だ。世界的な事業展開と国境を越えた提携には、心と心が通じ合うことが最も重要だという、「オサムイズム」の基本である。

 提携発表の記者会見のまさに前日、新聞の夕刊でスクープされるまで、この提携に向けた情報は完璧に管理された。第三者割当増資の価格決定も終了し、正式発表に向けてフェルディナンド・ピエヒとマルティン・ヴィンターコルンが日本に向かう飛行機に搭乗することで発覚したスクープであった。

 しかし、晴れやかな提携発表会見からわずか1年も経たないうちに両社の不協和音が表面化する。2年目にスズキは提携解消を決定。それを拒絶したVWをスズキは国際仲裁裁判所に提訴し、その後4年にもわたり法廷争いが続くことになるのである。

 実に4年間、修はドイツの大自動車メーカーとの闘争をくり広げる。自ら引き起こした判断の誤り身から出た錆ではあったが、80歳を越えた修にとって、肉体的な苦痛は想像を絶するものだっただろう。一歩間違えれば、会社がVWに買収される恐怖との戦いでもある。

 100年近く続くスズキの独立企業としての歴史に終止符を打ちかねない、存亡の危機を招き込んだのだ。修がスズキの未来のために引いた3枚目のカードは、まぎれもないジョーカーであった。

(続く)