日本近代化の流れ(39)

1935(S10)年になると日本人に対するテロ事件が頻発するようになる。これは蒋介石に対立する共産党軍の第十九路軍配下の活動家が、日本軍の矛先を中国軍蒋介石軍)に向けさせるためのものであった。このおびただしいテロ攻撃に対しては、日本は徹底的に中国をたたいておくべきであった。そうすれば通州事件や第2次上海事変も起こらなかったかもしれない。

 

1935.1.21  汕頭の日本領事館付き巡査角田進氏射殺事件、

1935.5.2~3  天津日本租界事件親日満の支那新聞社社長ら2人が立て続けに殺害される。

1935.7.10  上海邦人商人射殺事件

1935.8.4  らん州事件。日本軍人、親日満要人暗殺事件。支那保安総隊長殺害。

1935.11.1  汪兆銘中華民国行政院長が第十九路軍配下の活動家に狙撃される。

1935.11.9  中山秀雄一等水兵が上海共同租界の兵舎近くで射殺される。藍衣社の構成員が犯人

 

1936.7.10  萱生カヨウ事件(上海で子供と散歩中の三菱商社員射殺)、

1936.8.20  長沙爆弾事件。邦人経営の旅館に支那人が爆弾を投下、邦人一名負傷。

1936.8.24  四川省成都事件(大阪毎日新聞記者2名殺害、他2名重傷)、

1936.9.3  広東省北海事件商店主中野順三氏が、第十九路軍並びに暴民に殺害される。

1936.9.17  汕頭爆弾事件。日本人経営の広志洋行に爆弾を投ずるも不発に終わる。

1936.9.19  漢口領事館付き巡査吉岡庭二郎氏、射殺事件、

1936.9.23 上海日本人水兵狙撃事件。上陸散歩中の日本水兵4人が、支那人に狙撃され1死亡、2名重傷。

1936.12.12  西安事件蒋介石監禁され、北伐(対共産党攻撃)を止め、反日政策をとらされる。

 

1937.7.7  盧溝橋事件7.11に停戦協定。

1937.7.13  大紅門事件。北京大紅門で日本軍トラックが中国軍に爆破され、4名死亡する。

1937.7.14  日本軍騎兵惨殺される。

1937.7.25~26  中国軍に通報の上、廊坊付近で軍用電線を修理中、中国軍より攻撃を受ける。 天津駐屯地より増派を受けこれを反撃して撃退、敵は通州街道方面へ潰走。 日本側死傷者、14名。廊坊事件

1937.7.26  北京広安門通過の許可を受けた日本軍26台のトラックが、門を通過中に突如分断され攻撃される。日本軍死傷者19名。日本軍は中国の協定不履行と挑発行為に対して通告して反撃し、7.28~29で掃討する。広安門事件

1937.7.29 通州事件

 

 

 

この危惧は1937.7.29通州事件として実現してしまう。北京の東、通州にて日本居留民が260名が暴行を受け虐殺された。残りの居留民約120名は暴行を受け負傷した。居留民全380名全員が死傷したのだった。

http://poseidon.blog.ocn.ne.jp/blog/2007/05/を参照のこと)

 

 

これが第二次上海事変へと進展してゆく。

 

第一次上海事変に引き続き第二次上海事変の勃発だ。こちらの方がより本格的な戦争であった。第一次上海事変日本を中国の内戦に引っ張り込めなかったために、更に中国共産党軍が日本に挑発してきたものである。

それではよいお年を。(続く)