映画「靖国」に物申す(4)

4、 戦犯が戦犯でなくなった日

サンフランシスコ平和条約が調印されたのは1951年9月8日だが、それが発効

したのが1952年4月28日である。その2日後の1952年4月30日には、

国会で次の法律を成立させている。戦傷病者戦没者遺族等援護法である。

これは戦場で傷病死したり戦死したりした人達の遺族に遺族年金を支給するた

めの法律であるが、翌年の1953年8月1日には同法を一部改正して、いわゆ

「戦犯」にもこの法律を適用して、戦犯の遺族にも同等の遺族年金と弔慰金

を支給することを、国会の全会一致で可決している。

この時点で独立国日本は、戦死も戦傷病死も戦犯による刑死も、獄中死者

べて国家のために犠牲になったとして、厚生大臣の認定により、その扱いに一

切の差をつけないと決定したのである。(援護法附則第20項)

すなわち、法律的には、日本から「戦犯」と言う存在を無くしたのである。そして

公文書では戦犯処刑と言う言葉は無くなり、法務死と書かれることになる。

更には、1954年6月30日には「恩給法」を改正し、拘留中に獄死した人の遺

族にも同様の保障を決めたのである。

独立国日本としては、サンフランシスコ平和条約などに忠実に従い、自国の手で

晴れて戦犯を赦免し、A、B、Cの各級戦犯者を「戦犯処刑者」ではなく、国を守っ

て死んだ人としての揺るぎない位置づけを行い、「法務死をされた方々」とし

たのである。

ここにA、B、C級戦犯と言う言葉は無くなり、彼等は国を守ってなくなられた「法

務死」をされた方々なのである。

靖国神社に祀られている方々は、A級戦犯ではなく、法務死をされた方々

のである。ちなみに、1951年11月13日の参議院討議の議事録がこの本には

掲載されているが、それによると当時の法務総裁(国務大臣大橋武夫は次のよ

うに答弁している。

国務大臣大橋武夫 (注)法務総裁は今の法務大臣、当時は法務庁だった。

戦争犯罪なるものは、これは国内法上におきまする犯罪と観念すべきも

のでは私はなかろうと思います。これは国内法におきましては、飽くまで

犯罪者ではない。従いて国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱う

ということは、如何なる意味においても適当でないと思うのであります。』

以上見てきたように、1953年8月1日には戦犯と言う概念を否定し、国のため

に亡くなられた「法務死」された方々と言う位置づけを行っていたのである。靖国

神社に祀られている方々は、A級戦犯ではなく「法務死」された方々なのである。

このように日本国は、戦犯問題を、1953年(昭和28年)、独立2年目にすべて

解決したのである。上坂冬子氏はこの本で、次のように述べている。

『いまさら、正当な根拠もなく感覚的な言いがかりのみで、日本の首相の靖国

拝に対す姿勢を殊更にあげつらうのは、中国の日本に対するいわれなき蔑

、あるいは何らかの悪意に満ちた意図があると疑わざるを得ない。』

将にその通りである。中国に気兼ねをして靖国神社に参拝できない福田康夫

は、日本人ではない。これを非国民と言う。日本から早々に出て行って貰いたい

ものである。小泉純一郎首相こそ日本人の誇りである。安倍晋三もこそこそと真

榊など送らずにご自身が堂々と靖国神社に参拝しておれば、退陣することになら

ずに事態が進んだものと思う。

(続く)