その後「尾崎秀実(ほつみ)」は、1934(S9)年10月に東京朝日に移り、1936年に中国問
題の専門家として太平洋問題調査会に参加する。1938(S13)年7月に東京朝日を退社し
て、第1次近衛内閣の嘱託となり1939年1月の内閣総辞職までその職に留まる。尾崎は
嘱託となると同時に近衛主宰の政治勉強会「朝飯会」のメンバーとなりこの関係は第3
次近衛内閣の1941(S10)年8月まで3年間も続いた。その間尾崎は、中国の各事変に対
して不拡大方針を堅持する政府に対して、事あるごとに拡大させよと強力に主張し、和
平工作に反対している。
尾崎は自分を「完全な共産主義者」であると認め、その最終目的は「全世界での共産主
義革命を遂行する」ことであり、逮捕後の取調べでは「世界共産主義革命遂行上のもっと
も重要な柱であるソ連を日本帝国主義から守ることである」と、供述していると言う。そのた
め日本が蒋介石などと和平を結ばれ安定してもらっては(ソ連にとっても、中国共産党に
とっても)困ることになるので、盛んに中国での戦争拡大を近衛内閣に吹き込んでいたの
である。ゾルゲも尾崎も当然だか、その後死刑に処せられている。
このように中国内でも日本国内でもコミンテルンの手先が暗躍していたのであり、この第2
次上海事変も国民党内に巣食っていた実質共産党員である「張治中」によって引き起こ
されたものであった。
嘗て張治中は黄埔(ホ)軍官学校の教官をしていたことがある。この士官学校はソ連が
資金と人材を提供して設立したものであり、その中からソ連は高い地位のスパイ育成を目
論んでいた。校長は蒋介石であったが、そこには政治局員として周恩来がいた。
「張治中」は周恩来に中国共産党への入党を依頼したが、周からは国民党内に留まり「ひ
そかに」中国共産党と合作するよう求められたと言う。回想録にそのように記述されてい
るとWikipediaに書かれている。
1936年12月11~12日に起こった「西安事件」こそ忘れてはならない。当時共産軍は蒋介
石に攻められて戦力は1/3に減っていた。そのため蒋介石はここぞとばかりに殲滅を図るべ
く1936年10月に、蒋介石軍の司令官であった張学良と西安の軍閥の楊虎城に、共産軍
根拠地(多分延安)への総攻撃を命じた。しかし2人とも共産軍と通じていたために、なか
なか攻撃を開始しなかった。そのため蒋介石は督戦のため、1936年12月4日に西安を訪
れた。しかし蒋介石は12月11日夜から12日朝にかけて、張学良と楊虎城に攻められて、
12日早朝名所旧跡の華清池のホテル裏山に逃れたところを捕えられてしまった。
捕えられた蒋介石は、スターリンからの「蒋を殺すな」の電報で、生き永らえた。ソ連にす
れば、蒋介石を生かしておいて日本と戦わせれば、対ソ戦を回避できるし、ソ連の対日戦
も有利になると考えていた。そして周恩来や葉剣英などが乗り込んできて、どんな手を使っ
たかは定かではないが、共産党掃滅を辞めさせることを約束させた。Wikipediaにはソ連
に留学中の彼の息子の蒋経国を人質にとり、彼の帰国と引き替えに抗日戦に引き込んだ
とも書かれているが、これも理由の一つにはなるがこれだけではなかろう。
[結局蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させら
れたのだ。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、「第2次国共合作」
が成立する。そして国民党内では親日派が後退し、・・・代わって親ソ派が台頭した。・・・こ
こに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだ。]と黄文雄氏の「日中戦争は侵略
ではなかった」には記載されている。またWikipediaには、台湾に渡った中国の学者・胡
適は「西安事件がなければ共産党は程なく消滅していたであろう。・・・西安事変が我々の
国に与えた損失は取り返しがつかないものだった」と言っていると記載されている。それほ
ど衝撃的な事件であった。まあ、命令をきかない司令官には、何らかの(反乱の)事情があ
るかも知れない、と考えることも大事なことであろう。そう気が付けば蒋介石ものこのこと西
安なんぞには行かなかったであろう。
そして日本の尾崎秀実はソ連と通じていたため、この顛末も正確に予測できた。そのた
め近衛文麿に認められ、彼の勉強会にもぐりこむことが出来たのである。そして日本の情
報はソ連に筒抜けとなり、対支政策がことごとく裏目と成り、日中戦争に引きずり込ま
れて行くこととなる。近衛文麿とその取り巻きたちは、なぜ尾崎がこれほどまでに正確に
予測できたのか、と疑問には思わなかったのか。これなどは第一級の反省材料であろう。
盧溝橋事件や大山勇夫中尉達が虐殺された1937年には、張治中は「南京上海防衛隊
司令官」であり、ソ連大使館と緊密な連絡を取っていた。そして上海で日本軍に先制攻撃
をするよう盛んに蒋介石に具申していた。しかし蒋介石は頑としてその意見には賛成せず
退けていた。
その理由は、1932年1月に中国19路軍が日本警備隊へ先制攻撃を掛け、3月3日まで続
いた第1次上海事変での列強の反中国姿勢にあった。蒋介石は列強の介入を恐れてい
たのである。この間かの張治中は第5軍の長として、2/16からこの作戦に参加していた。
第1次上海事変は、上海派遣軍を編成した日本軍が3月1日に19路軍の背後に上陸した
ため中国軍が退却している。そして5月5日の上海停戦協定で終結したのである。
この結果、中国軍は上海周辺に非武装地帯を設定させられ、この協定の実施を監視する
ため英米仏伊と上海市長からなる国際委員会まで作られてしまったのである。もちろん
日本軍も撤退している。
しかしながら不拡大方針を堅持した日本は、中国軍を徹底的に叩かなかった。今思えば叩
いておくべきであった。このように日本の中国に対する対応が軟弱だったために、日本
弱し、と見た中国軍はその頃盛んに日本人水兵殺害や日本居留民に対する略奪・虐
殺事件が起こしたのであった。
まず第1に、1927(S2)年3月24日、蒋介石の北伐軍(国民革命軍)が南京を占領し撤
退する時に、日本、米国、英国の領事館や居留民の家屋を襲い、略奪・殺人を行ってい
る。これを1927年の「南京事件」と言っている。このため米英は艦砲射撃で蒋介石軍に反
撃したが、日本はそれには加わらなかった。当時の首相の幣原喜重郎は、「軟弱外交」
であった。対中不干渉主義に徹し中国に対して責任追及などは一切しなかった。そのため
国民党は、当時は反英であったが軟弱な日本の態度に反英から反日へとがらりと政策
を変えたのである。そしてその反日を使って、国民革命軍のナショナリズムを高め意志統
一を図っていったのである。
(続く)