第2次上海事変(6)

第2に、北上途中の国民革命軍蒋介石軍)は、1928年5月1日に北軍軍閥を駆逐して

済南に入城した。済南には2,000名近くの日本人居留民が住んでいたが、南京事件を恐

れて日本に出兵を依頼、日本は第六師団を済南派遣軍として邦人保護に当たらせてい

た。済南派遣軍は蒋介石から治安維持は中国軍が確保するから日本軍は撤去して欲しい

との要望があり、現地の警備司令官は独断で警備体制を解除した。すると1928(S3)年5月

3日
、一部の国民革命軍の兵士達は日本人商店を襲撃し、更に日本人家屋を襲撃し略

奪、暴行、陵辱、虐殺を行った。これを「済南事件」と言う。Wikipediaによれば、被害人員

は約400人、略奪被害戸数136戸、死者14人(男12,2日後に死亡2を含む。女2)、生活の

根底を覆されたもの280で、日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部

露出せるもの、女の陰部に割り木を差し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、

右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱しおれるもの各一、陰茎

を切り落としたるもの二」とある。虐殺の仕方はまさに”中国式”で、酸鼻を極めた。これ

蒋介石の、言ってみれば「略奪命令」により計画的に行われたものである。中国軍の

無頼、残虐さ注意を払わなかった当時の済南派遣軍の幹部達の責任は、限りなく大きいと

言わざるを得ない。余りにも甘すぎた。


次の「
済南事件の真実http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/chinan%20question.htmlも参照されると良い。


しかも中国側は済南事件を捏造して、日本側が虐殺したと言い触らしていると言う。

歴史共同研究 済南事件」(
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/23988688.html)も参

照されたい。

済南虐殺事件」(http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/09/post-3a19.html

f:id:altairposeidon:20200530224940j:plain

済南事件photo 

しかもこの「済南事件で殺された日本人の写真」が中国では、「731部隊の被害者」として

中国の教科書に掲載されたり、「731部隊記念館」では蝋人形となって展示されている、と

言う。

マスコミがいえない韓国の話」(
http://brain.exblog.jp/2809948)を参照のこと。

事ほど左様に中国と言う国は、信用ならざる国である。これは現在も変わりない。

現在はなお性質(たち)が悪くなっている。


続いて、第3に1937(S12)年7月29日に発生した「
通州事件」である。
(当ブログ'07.5.28、「通州事件についての詳細」も参照のこと)


友愛精神を踏みにじった通州事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html)を是非参照してください。


そして次の動画も見ていただければ、中国人の残虐性がわかります。

http://www.youtube.com/watch?v=ZUNtc-BzAwA


南京大虐殺記念館
は、この通州事件がモデルとなって作られています。だから共産党

国人は自身が行った虐殺事件を、日本軍がやったと捏造して吹聴しているのです。日本人

や日本軍は、けっしてあんな虐殺は出来ませんしやっていません。虐殺はすべて中国古来

の文化(易姓革命
'08.11.15「ヨーロッパと日本(25)」参照)であったので、あんな記念館

まで平気で作ることが出来るのです。そして共産党一党独裁政治を守るために、あのよう

プロパガンダを捏造してやっているのです。天安門事件が良い例です。中国人民解放

軍の戦車は、平気で学生達を轢いていったのです。だからするめ状態の画像が写されて

いるのです。

多数の日本人が虐殺されたこれらの事件以外でも次のようにテロ行為が多発している。

これらはほとんどが共産党員かそのシンパによって引き起こされており、日本は完全に

舐められていたのであり、日本を中国の内戦に引きずり込むためのテロ行為でもあっ

た。


1932年3月1日、満州国建国満州問題については後日取り上げたい。)

1933年2月23日、熱河事件(張学良が熱河省へ反満抗日侵攻し、関東軍がこれを駆逐

した。)

1933年3月27日、国際連盟満州国の完全承認をしなかったため日本が脱退した。

1933年3月31日、熱河事件塘沽
(たんくー)停戦協定終結。後日の1935年北京と河北・

熱河省間に冀東防共自治政府成立。熱河省は北京北部、万里長城と遼寧省の間を言う。

現在は河北省に統合されている。

1935年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件(香港とアモイの中間の沿岸部に位置する都市)

1935年6月10日、梅津・何応欽協定(北支より中国軍の移動)

1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定(宋哲元軍移動)

1935年7月10日、上海邦人商人射殺事件

1935年11月9日、中山秀雄一等水兵射殺事件(上海共同租界にて)

1935年12月25日、冀東防共自治政府成立

1936年8月24日、成都事件(邦人記者ら四人が銃撃され、2名が死亡)

1936年9月3日、北海事件(広東省北海で日本人商店が襲撃され、経営者が殺害)

1936年9月19日、漢口邦人巡査射殺事件

1936年9月23日、日本人水兵射殺事件(4名が上海共同租界を散歩中狙撃され2名死亡)

1936年11月15日~21、綏遠事件(独立を目指し内蒙古軍が蜂起した。顧問として日本人。)

1937年7月7日、盧溝橋事件

1937年7月29日、通州事件(冀東政府保安隊による同政府、日本居留民への暴行、虐殺)

 
そして隠れ共産党張治中は、蒋介石の承認を得ないまま、1937年8月9日夕刻

上海飛行場外の記念通りで
大山勇夫海軍中尉斉藤与蔵一等水兵を射殺したのであ

る。このときは中国人死刑囚に中国軍の軍服を着せて、近くで射殺までしている。これは

日本側から発砲したように見せかけるためであった。そして第2次上海事変へ、そして日

中戦争へと日本は引き込まれていったのである。

だからマッカーサーが米議会で、日中戦争防共戦争であった、と証言したのも頷けると

言うものである。米国はそのことに対して当時は認識がなかった、と言うよりも米国政府自

体もコミンテルンに犯されていたからである。「ハル・ノート」を記述したハリー・デクスター

・ホワイト
コミンテルンの一員であった。詳しくは当ブログ2008.9.12~13の「靖国神社

参拝しよう(2)(3)」などを参照願う。

(続く)