支那事変の真相(1)

2013.1.25午前、中国を訪問している公明党山口那津男代表は、北京の人民大会堂

習近平総書記と会談した。


その時習近平日中関係について

歴史は直視することが重要だ。これまでの教訓を生かして慎重に対応してほしい。

と言っている。


これに対して山口那津男は、「政治対話を重ねて日中の首脳会談に至るように双方が

努力していくことが重要だ
」と述べている。


総書記尖閣「対話を」 山口公明代表と会談 首相親書手渡す
2013.1.25 12:48 [公明党
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中国の習近平共産党総書記(右)と会談する公明党の山口代表=25日午前、北京の人民大会堂(共同) 

 【北京=力武崇樹】中国訪問中の公明党山口那津男代表は25日、北京市の人民大

会堂で中国共産党習近平総書記と約1時間会談した。山口氏は安倍晋三首相が習氏

に宛てた親書を直接手渡し、早期の日中首脳会談を要請。習氏は「真剣に検討したい」と

応じた。習氏は中国が領有権を主張している沖縄県尖閣諸島にも言及し、「立場の違い

があるが、対話と協議によって解決する努力が大事だ」と述べた。

 習氏は会談冒頭、「中日関係が特殊な情勢に直面している中、来訪を重視している

と述べた。

 会談後に記者団の質問に応じた山口氏によると、習氏は「歴史を直視することが未来

につながる。教訓を生かし、慎重に対応してほしい
」と語った。尖閣諸島をめぐる問題

や、いわゆる歴史認識問題を念頭に日本側を牽制(けんせい)したものとみられる。

 これに対し、山口氏は「大局的な立場で戦略的互恵関係を推進することが大切だ。

対話を重ねることで必ず解決できる
」と応じた。

 また、習氏は山口氏の首脳会談実現の要請について「ハイレベルの対話が重要であり、

環境を整えていくことが重要だ」と語った。「安倍首相にくれぐれもよろしくお伝え下さい

とのメッセージも託した。

 習氏が昨年11月に総書記に就任して以降、日本の与党幹部との会談に応じるのは初

めて。山口氏は25日夜に帰国する。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130125/stt13012512490004-n1.htm

 
 
習近平は「歴史を直視することが未来につながる。教訓を生かし、慎重に対応してほ

しい
」などと言って機先を制したようだが、歴史の真実を知らない山口那津男にはそれなり

にこの言葉は重く圧し掛かったかも知れない。この「歴史を直視して」とは、日本が中国を

侵略したことを意味させたかもしれないが、これは歴史を知らない輩の思うことであり、間

違った歴史を教えている中国人が良く口にすることであろう。しっかりした歴史理念をもっ

ている日本人は、こんな脅しで騙されてはいけない。


歴史を直視しなければならない国は、中国であり、習近平である。「なぜ中国が歴史を直視

しなければならないか」は、古くはなるが2007.7.4に載せた小生のブログ「日中戦争は中

共産党が惹き起こしたものだ。」を参照された方はわかっていると思われるが、蒋介石

や各地の軍閥の力を日本軍にワザと向わせて、中国共産党に敵対する勢力の力を殺い

で中国に共産党の政権を作るためであった。そのために共産党員は、日本人を殺戮し日

本人居留地に攻め入り強奪しまくっていたのである。


満州もそんな状況に引き込んでいたのであった。だから日本軍は自衛のために、柳条湖

事件を起こさざるを得なかったのである。


先ずはそのブログの内容を、念のために次に示そう。

 
 
日中戦争中国共産党が惹き起こしたものだ。
http://blog.goo.ne.jp/atlas_centaur/e/fa26e87144a2e89b3075f0df6b0d9743
2007-07-04 20:15:02

手長猿温家宝もマントヒヒ胡錦濤も「日中戦争は日本の侵略から始まった」と言っている

が、実際は中国共産党が、「
日本国内でも共産革命を惹き起こさせようとして、無理や

り日本軍を引きずり込んだ
」ものだ。以下「正論」'06/8,9月号を引用しながらそのいきさつ

をまとめてみたい。

我々はchinkoro中国の欺瞞に騙されてはならない。


1.コミンテルンの武装革命。


コミンテルンとは、世界各国共産党の指令機関として1919年に設立された世界赤化を目

的とする組織であり、ソ連政府と表裏一体のものであった。


ソ連コミンテルンの意向・指導の下、1921年の一全大会で支那共産党即ち中共が成立し

コミンテルン加入が決議された。そしてその工作のもと、1924年1月国民党一全大会の

「連ソ容共」決議によって第一次国共合作が成立した。


更に 1926年12月に「コミンテルン十二月決議」が作成された。それによると支那革命の

目的をプロレタリア・農民による社会主義国家建設とし、農民らを武装し地主からの土地

没収、内乱の助長などの暴力革命を謳い上げている。即ち、国共合作を利用して共産党

の暴力的権力奪取の謀略である。


2.対日戦争を革命戦術に組み込む。


1935年のソ連コミンテルン第七回大会で、反ファシスト人民統一戦線方式が打ち出さ

れた。その結果「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。

内容は中共がその革命戦術の中に対日戦争を採りいれて、「内戦停止・一致抗日」を訴

え、所謂「救国」運動に変換し革命戦術を拡大させたのである。そしてそれは国民党軍に

潜入していたコミンテルンの指令を受けた中国共産党工作員による、1937年7月8日の

盧溝橋事件」へと展開してゆく。


1900年の義和団事件後の講和議定書(辛丑条約)に基づき夜間訓練をしていた日本駐

留軍支那駐屯歩兵第一連隊第一大隊第八中隊の後方から銃撃を加えたのも、国民党軍

に潜入していた中国共産党工作員であった。事実、事件発生直後の深夜、北平から延安

中共本部への「成功了」の平文の電信が打たれている。その結果、コミンテルンは「あく

までも局地解決を避け、日支の全面衝突にまで導かなければならない」とする指令を中国

共産党に発している。


3.盧溝橋から全面衝突へ。


盧溝橋において思惑通りにことが運んだことを受け、コミンテルンは直ぐに次のような指令

中共に発している。


(1) あくまでも局地解決を避け、全面戦争に導け。

(2) 民衆を煽動して、国民政府をして戦争に導け。

(3) 紅軍はゲリラ戦に入れ。

(4) 共産党は国民政府軍の下級幹部・兵を取り込み、国民党を凌駕せよ。


盧溝橋での衝突の後7月11日、日中双方との間で停戦協定が調印された。だが、中国軍

はその後も、たびたび停戦協定を破り、日本軍への挑発攻撃を続けた。

日本軍は事態の不拡大方針をとり、平和交渉を求め続けていたものの、不本意ながら泥

沼の戦争に引きずり込まれて行った。

このことは、7月8日付けの日本軍の不拡大方針を指示した電報の原文が靖国神社の遊

就館に展示してある。

「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコト避クベシ」が原文である。


4.第二次上海事変の勃発。


中国共産党は、これらの事件を拡大させ、局地解決を妨げ、国民党に寄生し協力しつつ、

党政を拡大するというコミンテルン秘密指令を実行していった。

1937年8月9日には前哨戦たる国民党軍に潜入していた中国スパイによる日本将兵の

虐殺事件が発生した。モスクワの意向を受けていた「冬眠スパイ」が引き起こしたことは、

中共側資料に明記されている。


更に上海では事を起こさないと言う蒋介石の方針に反し、中国軍は非武装地帯に陣地を

構築し、日本の陸戦隊を挑発し8月13日先制攻撃を開始したのであった。第二次上海事

変の勃発である。


これが、日本上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤与蔵一等水兵が上海共

同租界の国際的自由通行路のモニュメントロードを走行中に、中国保安隊に機銃掃射を受け殺された事件で

ある。これは蒋介石軍の「南京上海防衛司令官」の張治中が引き起こしたものであった。張治中は蒋介石軍にも

ぐりこんでいたパリパリの共産党員である。(第2次上海事変、2012.5.28,NO.1~を参照のこと。)


(続く)