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日本近代化の流れ(11)

4明治15年18827月、壬午ジンゴ軍乱勃発(大院君ら守旧派の反乱、日本人惨殺される。

 

江華島条約は開化派の高宗の妃である閔妃(びんぴ)によって結ばれたが、守旧派である高宗の父・大院君はそれが不満であった。1882723に、大院君らの旧軍兵士らが、漢城に乱入し閔妃一族や政府高官らを暗殺した。

 

更には日本公使館をも襲撃した。在留日本人を収容した日本公使館は、朝鮮政府の護衛もなく、花房公使以下28名は夜陰に紛れて公使館を脱出せざるを得なかった。そして28名中17名の死者と多数の負傷者を出しながら、辛うじて済物捕へ逃避し小船で漂流しているところを英国測量船に保護され、命からがら長崎に帰還することが出来た。

 

いち早く事変を察知した閔妃は、駐屯清国軍の袁世凱のもとに転がり込み、反乱軍を鎮圧し大院君を天津に軟禁する。政権を取り戻した閔妃らは、開化政策から親清政策へと転換する。

その後日本は花房公使を全権として派遣し、済物浦条約を結ぶ。日本は公使館警護のために日本軍を駐留させ、賠償金として5年で50万円を受け取ることになったが、結局は10万円しか支払われなかった。日本は、今からでも残りの40万円を現在の価値に換算して、朴槿恵に請求すべきである。当時の1円=現在の3万円とすると、120億円ほどになろう。これを朴槿恵に請求する必要がある。

 

この壬午軍乱で死亡した17名の日本人は、語学留学生も含めて全員が、靖国神社に祭られている。ちなみに壬午軍乱で虐殺された日本人の死体は尋常ならざる状態であったと言う。死体は切り刻まれ、頭骨までもが打ち砕かれており、個人の特定ができなかったと言う。日本人と特定したのは、付着する衣類の一部が日本特有のもので、全員の遺体の損壊状況が尋常ならざる状況ですべて共通していたからであった、と報告書にも記載されている。

 

そして漢城には、日清両国の軍隊が駐留することとなり、2年後の甲申事変へとつながってゆく。

 

 

5明治17年1884年12月、甲申コウシン事変勃発(金玉均のクーデターを袁世凱が鎮圧、清国兵は在留日本婦女子30余名を陵辱殺害し、多くの在留日本人も虐殺された。天津条約。)

 

閔妃の親清政策に対して開化派の金玉均らは日本に接触し、近代化を目指すことになる。そして

1884年(明治17年)12月4日に計画は実行され、そのクーデターは成功する。

 

そしてその日のうちに金玉均を首相とする内閣は国王の稟議を経て成立し、清国への朝貢を廃止するなど決めたが、即座に袁世凱率いる清軍1500が王宮を警護する日本軍150を攻め、日本軍とクーデター派は敗退してしまう。漢城市街では清国軍人によって多数の在留日本人が殺され略奪されてい。特に婦女子30余名は清国兵に陵辱され虐殺された。そして金玉均らは日本へ亡命する。

 

その後日本と清国の間に1885年(明治18年)4月18日に「天津条約」が結ばれる。これが甲申事変である。

 

条約の内容は、

(1)日清両国は4ヵ月以内に撤兵を完了する。

(2)日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は日清両国以外から軍人を招致する。

(3)朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする。派兵後は速やかに撤退し駐留しない。

(4)日本人殺傷事件を調査し、事実であれば処罰を行う。

 

そして残った開化派人士やクーデター派の三親等までの親族が残忍な方法で処刑されている。この女・子供を含む近親者への残酷な処刑は、中国・朝鮮への憎悪を福沢諭吉に呼び起こさせて、福沢諭吉の「脱亜入欧」論を発表させることになり、日本近代化の方向性が定まるきっかけともなっている。そして日本軍の惨敗結果が反省され、後の日清戦争には大いに役立ったと言われている。

 

言っておくが、この天津条約に違反して、中国(清)が秘密裏に朝鮮に軍隊を出兵させたことから、日清戦争は始まっているのである。それにしても日本軍は駐留清国軍に対抗出来得るだけの戦力を準備しておかなかったことは痛恨の極みである。大いに反省する必要があろう。

(続く)