邪馬台国とはなんぞや?(54)

さて、狭野の命と呼ばれていた神武天皇は、BC74年、23才の時、東征を決意したとされるが、小生には何故「東征を決意」したのか、その理由がよくわからない。日本を統べると言う事がそれほど大事なことと考えていたのであれば、相当偉大な人物であったのであろう。

 

宮崎県での砂鉄の確保が覚束なくなった、と言う事なのか。それとも天変地異などの影響なのか。

 

 

神武天皇の即位はBC70と言う事は、弥生時代の前期の中頃の事であろう。

 

と言う事は、天照大御神はその五代前の人となるので、神武天皇から200~300年前とすれば、BC300~BC400年頃のこととなろう。弥生前期の始めの頃ではないのかな。古事記には、須佐之男命が水田の溝や畔を壊したことが述べられているので、既に大々的に(?)水田耕作が行われていた時代である。

 

弥生の前期の頃の話とすれば、天照大御神の時代は、きっと吉野ケ里の最盛期と重なるのではないのかな。感覚的には、天地創造の時代との関連もあるので、もっと古い時代だったかも知れないのであるが。

 

と言う事は、当然天照大御神は、邪馬台国卑弥呼なんぞとは同格の人物ではない、と言う事だ。

 

 

 

さて媛蹈鞴五十鈴媛命の母方は、摂津の三島の溝橛(みぞくい)の娘勢夜陀多良比売であり、父方はヤマトの三輪山をご神体とする大神神社の祭神である大物主命であり、両親ともども製鉄に関わっている家系であった(2018.10.17NO.47を参照の事)。

 

三輪山からは砂鉄が穫れたので、山を神とした崇めたのであろう。そして大物主即ち大己貴(オオナムチ)神は、その製鉄集団の頭であった。

 

三輪山の西南麓には金屋遺跡があり、弥生時代の遺物と共に、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土している、と書かれている。鉄滓が出ると言う事は、製鉄が行われていたと言う事である。

 

三輪山の西北には大兵主神社穴師座兵主神社あなしざひょうずじんじゃ)もある。兵主とは鉄の加工を司る集団である。

穴師とは砂鉄の選鉱と製鉄を司る集団で、兵主がその鉄から武器、農具を造っていたのである。

 

しかも三輪山の東南の地には出雲と言う地名もあり、山陰の出雲との関係も取りざたされている。

 

須佐之男命の八岐大蛇退治は、山陰の出雲が舞台であった。ここからも良質な砂鉄が穫れたのであろう。ヤマトの出雲の大物主系の製鉄集団が、砂鉄を求めて山陰の出雲へ乗り出した、と言う事であろう。大物主神須佐之男命の子孫にあたる人物となっていることからも、そのように想像される。

 

出雲大社の祭神は大国主命であり、ヤマトの大神神社の祭神は大物主、正式には倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)と言い、『出雲国造神賀詞(かむよごと)』にもその名が載っていると言う。

 

小生はなぜ、三輪山が姿かたちが良いからと言って、神と崇められていたのか理解できなかったのだが、これで合点がいった。この山の山麓扇状地には、多数の雲母と含鉄石英砂が混在しており、鉄の精錬が可能であった、と先の書の158頁には書かれている。

 

しかもタタラ製鉄には大量の木炭も必要なので、三輪山の豊かに森林も好都合だったのである。しかも大量にたたら製鉄を行えば、一山が丸裸になるほどの薪が必要となり、そのため植林が積極的に行われた、と言う。

 

しかし丸裸になった山が回復するのには数十年を費やしたことであろうことから、相当息の長い事業であったことであろう。

 

そして日本書記の巻第三には、神武天皇のお言葉として次のようなことが書かれている。

 

「昔、伊弉諾尊がこの国を、「日本は心安らぐ国、美しく良い武器がたくさんある国、勝れていてよく整った国」と仰せられた。また大己貴大神は、「美しい垣のような山々に取り囲まれている国」と仰せられた。饒速日命は、天の磐船に乗って、大空を飛び回り、この国を見てお降りになられたので、「大空から見て、よい国だと選びさだめた日本の国」と名付けられた。

 

と書かれているが、この大己貴大神の仰せになった「美しい垣のような山々に取り囲まれている国」は、木炭を造るのに適していると言う意味も含んでいるのではないのかな、と勘ぐることも出来そうだ。

 

ヤマトはこのように「鉄」の適地だったので、三輪山が神と崇められていたのである。その御神霊が大物主神であり、媛蹈鞴五十鈴媛命比売多多良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめ

は、その神の子であった。その神の子を、神武天皇は后として迎えることが出来たのである。

 

しかも母方は摂津の製鉄集団の娘でもあったので、神武天皇は大和と摂津の両製鉄集団との絆を深めることが出来たのである。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(53)

 

西暦

年前

時代

区分

日 本 列 島・内 容

BC48,000~

-50000

 

人が住み始める

BC28,000~

-30000

 

本格的に人が住む

BC23,000~

-25000

 

大型獣の狩猟

BC18,000~

-20000

 

最寒冷期、細石器文化、大陸と分離始まる。

BC16,000~

-18000

 

温暖化・海面上昇、最古の縄文土器(青森16千年前)

BC13,000~

-15000

 

照葉樹林広がる

BC11,000~

-13000

草創期

土器、石鏃、一時寒冷化

BC8,000~

-10000

同上

縄文海進、貝塚・定住化

BC6,000~

-8000

早期

対馬流入、佐賀・東名遺跡(網かご・貯蔵)
鬼界カルデラ噴火・九州南部・縄文文化壊滅

BC4,000~

-6000

前期

最温暖化、照葉樹林貝塚・漁業

BC3,000~

-5000

中期

青森・三内丸山遺跡(世界四大文明に匹敵する

BC2,000~

-4000

後期

寒冷化、人口減少、山の寺梶木遺跡(山の寺式土器・籾痕の土器・陸稲南島原市

BC1,000~

-3000

縄文

弥生

晩期

早期

晩期・陸稲、早期・水稲始まる。
菜畑遺跡大規模水田跡)、
板付遺跡大区画水田跡環濠集落、夜臼式土器)

BC800~

-2800

早期

水稲栽培、板付Ⅰ式土器

BC400~

-2400

前期

吉野ケ里遺跡最盛期神武天皇即位BC70

AD100~

-1900

中期

AD57・漢倭奴国

AD300~

-1600

後期

AD239親魏倭王邪馬台国卑弥呼

 

板付遺跡

   1978(昭和53年)には、弥生I層(弥生時代前期)より下の縄文時代晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯ることが明らかになった[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/板付遺跡

 

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東名(とうみょう)遺跡・縄文晩期                     

ちなみに板付遺跡は上記福岡市の「市」の下辺りに位置している。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO95482030U5A221C1000000?channel=DF280120166609

   菜畑遺跡
弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡、紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)[編集]

遺構16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。

花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。一方、種子は第12層以下ではアリノトウグザ水湿性植物の種子が多く出た。

遺物の土器は、それまで最古の水田跡とされていた板付遺跡の夜臼式土器(柏崎式土器)よりも古い「山の寺式土器」であった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。

     弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡[編集]

1980-81年の発掘で、従来縄文時代晩期末とされた地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘され、これは従来縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/菜畑遺跡)

 

 

念のために言うと、板付遺跡は奴国の位置と重なっている。
菜畑遺跡も、伊都国の位置と重なっている。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(52)

高知県四万十川上流の窪川町の高岡神社には五本の広鋒銅矛があり、それを担いで村々を回る祭があるとのこと。これも葦の玉葉が生い茂りその根元には鈴なりの褐鉄鉱のスズが沢山実ることを願って行われた祭であったのであろう、と先の書には紹介されている。

 

 

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴生りに生み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになって行った。このような考えに逢着したのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を造り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎、両輪と認識されていた故に、我が国の美称となったのである。

 

と、先の書は続けている(P179)。

 

 

弥生時代の民は、鉄を求めることが切実であって、そのためスズの生成を待ち望み、生成を促進させるために呪儀を行った。・・・・・そこでこの模造品を作ってスズの出来そうな湖沼を見渡す山の中腹の傾斜地で、これを振り鳴らしては仲間のスズの霊を呼び集め、あるいは地周に埋葬して同類の繁殖を祈った。それが鈴であり鐸であった
・・・・・
鉄を求めてスズの生成を待ち望んだ弥生時代の民は、鈴や鐸を振り鳴らして仲間の例を呼び集めるだけではあき足らず、同類を模造して地中に埋祭したのである。銅鐸の出土地の顕著な特徴は、湖沼や湿原に面した傾斜地であることもその間の事情を物語るものであろう。

 

 

と、真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」(学生社2008)から引用して、「なぜ銅鐸は埋納されたのか」に対して回答している。

 

初期の銅鐸は、褐鉄鉱の生成されるスズの代用品であり、それを鳴らしてスズの霊を呼び集め、更には「褐鉄鉱を司る「地中の神様への供物」として、葦原が見渡せる場所を選び、葦の葉を象徴した広鋒(ひろさき)銅矛も、時に同時埋納されたとかんがえられるのである」、と先の書には記されている。

 

更には鉄の需要が増し、褐鉄鉱は使い尽くされてゆき、銅鐸埋納などの祭祀(さいし、神をまつること)が行われたのではないか、とも思われている。

 

そしてタタラ製法には砂鉄が主力となり、日本は程なく鉄の大量生産の時代へ入ってゆく。

 

というのも、弥生前期末(BC100年頃)の丹後半島の扇谷遺跡には、鉄滓(てつさい、鉄のかす)やガラスの管玉などが出土しているのであるから、神武天皇の時代(BC70年即位)には既に相当の鉄が作られていたことであろう。

 

事実褐鉄鉱は千℃未満の低い温度で鉄の還元が出来たので、初期のタタラで容易に製鉄が出来たのである。そして天孫が降臨したと言う日向の地は、その褐鉄鉱や砂鉄が豊富で早くからタタラ製鉄が行われていた地でもあった。宮崎県はご存知の通り火山国で、地理的条件には恵まれていたのである。

 

天の岩戸神話にもあるように、「天安河(あめのやすのかは)の河上の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、」と、砂鉄製鉄の技術も体得していた筈だ、と先の書にも記載されている(182頁)。

 

 

だから神武天皇が鉄を求めて東に向かった、というのも本当のことであろう。

 

ここで日本の歴史年代をおさらいしてみよう。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(51)

先の書(長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)の175頁に戻ると、そこには次のように記されている。

 

 

「豊葦原の瑞穂の国」とは(広辞苑第三版には)「日本国の美称」で、「三種の神器が地上を巡ることで豊葦原が出来上がり、その葉は”玉葉”と呼ばれていた」とのことであるが、その意味するところはさっぱり分からなかった筈だ。葦の葉が玉葉と呼ばれていた訳などは、皆目見当がつかなかった筈だ。

 

褐鉄鉱が生成されるなどと言うことは、もうすっかり忘れ去られてしまっていたのである。

 

 

長野県の蓼科一帯は「諏訪鉄山」と言われる鉄鉱石の産地だった。昭和四年から昭和三十八年まで、本格的に製鉄が行われていたと言う。

 

この鉄鉱石は植物の根から生み出された褐鉄鉱だったのである。この地域には、嘗て葦が生い茂りその葦の根から長い間に褐鉄鉱が精製・蓄積されていったものであった。

 

古代の人達は褐鉄鉱団塊が水辺に層をなすことを知っていたのだ。

 

そしてこれらをスズと称していた。更には、貴重な鉄が穫れることからミスズと「御」を付けて呼んでいたのである。万葉集では、「みすず刈る」と言う言葉は、信濃(長野県)の枕詞であった。ということは、長野県には葦の茂る沼沢が多く存在していたのであろう。

 

日本は火山国家であり、火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生(な)ったからだ、と先の書には記載されている。

 

 

 るみくすの「人生あるばむ」  ~ただの一人の人生だけど~

みすずかる信濃の国201221()

・・・・・

 

葦や茅を「なぜ」古代の人は刈っていたんでしょうか?。
ノーミンのように「よしず」を「妖精館」のために作ってあげる目的でないのは確かでしょう。
「よしず」は冬の風物詩ではありますが、それだけでは「信濃の国」と結びつきません。
「みすずかる信濃の国」とは言い難いところがあります。

葦や茅というのは「水辺」に群生しているものです。
その根元に「バクテリア」によって「褐色の酸化鉄の塊」が生成されることがあります。
これが「褐鉄鉱」です。

この「褐鉄鉱」が、鉱石から鉄を精製出来ない(火力の問題など)昔、鉄製の道具をつくるのに用いられたそうです。
この「褐鉄鉱の塊」を「すず」と言ったそうです。
接頭語の「御」をつけて「御すず」。
つまり「みすずかる」とは「鉄の材料になる物質を刈り取る」という意ではないか?と言うのです。

長野県には「海」という字が使われる地名が多いですが
(小海、海野など)
この「海」というのは、あのしょっぱい「海」ではなくて「大きな湖沼」を意味しました。
現在は存在していませんが、昔は火山活動などで出来た「堰止湖」が、長野県には複数存在し、そこから「海」の地名が出来たそうです。

ゆえに「葦や茅」が群生し、また「鉄イオン」が豊富な水が満々としていた湖があって、それで「褐鉄鉱」が採れた。
それを刈り取って、生成して鉄器を作っていた、という説です。

鉄、というと頭に浮かぶのは「朝鮮半島」からやってきた「渡来人」の存在です。
現在のように大半が東アジア系の人種ばかりではなく、おそらく白色人種である「ロシア系」の人々などもたくさんいたと思われます。
紅潮した顔や、クセの強い髪の毛、高い鼻などが「鬼」のモデルともなった、と言われていますが、彼らがもたらした「金属精製技術」が、時代を動かすことに加担していったわけです。

・・・・・

http://nichikan.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9044.html

 

 

しかもこの褐鉄鉱は鈴のように内部が空洞で、内部に鉄の小さな塊のあるものがあり、振ると音がしたと言う。だからスズと呼ばれ、しかも沢山生ったので鈴なりと呼ばれていたと言う。

 

この葦の根元に丸や楕円に褐鉄鉱が鈴生りに成長した様を、五十鈴と呼んだものであろう。

 

   だから媛蹈鞴五十鈴媛命は、きっとこの褐鉄鉱や砂鉄を用いて野ダタラで鉄を作っていた神(大物主神)の娘であったことが、容易に想像されるのである。

 

きっと葦が茂りスズが沢山生るようにと祈願して、五十鈴媛なる名前を付けたのではないのかな。

 

だから「豊葦原」の瑞穂の国と呼んだのであろう。「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味なのだ、と先の書には書かれている。

 

だから葦の葉が茂れば茂るほど、その根元にはスズが沢山(鈴生り)生み出されると信じて、葦の葉を「玉葉」と言う美称を付けて呼んだのではないのかな、とも書かれている。

 

そして、この玉葉を模して崇めたものが、実用的な価値を失っている広鋒(ひろさき)銅矛だったのである。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(50)

先に載せたこの表現・「手に鐸サナギ着けたる矛を持ちて、・・・巧みに俳優ワザオキを成し、相ともに歌い舞わしむ」は、矛と鐸が同時に使われていることから、いわゆる銅鐸文化圏・銅矛文化圏なる区分けは、間違ったものであると言える。矛も鐸も同時に使われていたのである。

どうせ分けるなら、銅鐸と鉄鐸と言うように、とで分けた方が歴史的事実には合っていることになる。

天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて』とあるように、ここに出てくる鉄製であった。だから銅製はそれほど必要がなかったことになる。

だから伊邪那岐伊邪那美の二神が天津神から賜った「天の沼矛」も鉄矛であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治した時の十拳トツカノ剣ツルギも、大蛇の尾から見つかった剣ツルギ(天の叢雲の剣)も「刃こぼれした」との表現があるから、みな鉄剣である、と先の書(長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))には記されている。

さて次は、「葦の根」から褐鉄鉱が採れた話に移ろう。先の書では、175からその話になっているので、それを次にまとめてみる。

これが古事記に言う「豊葦原の瑞穂の国」の豊葦原ということなのである。鉄と関係している。

しかし一般的には、次のような解釈が一般的であろう。これは間違いではないが、正しくはない。

 

山梨県立図書館 (2110005)   2011年04月27日 13時44分

「とよあしはらのみずほのくに」という日本の国名の呼び方はいつ頃使われていたものか。

「豊葦原瑞穂国」は古代神話の中の国土の美称の一つ。「古事記」「日本書紀」に見える。

 

1.『国史大辞典』第10巻(国史大辞典編集委員会吉川弘文館 1997年)「とよあしはらみずほのくに 豊葦原瑞穂国」の項→古代神話の中の国土の美称の一つ。「古事記」「日本書紀」に見える。豊葦原瑞穂国は「豊葦原千五百秋瑞穂国」の簡略体で、意味は「葦の穂の豊かにめでたく生いしげる」。国土を表す和風の美称には、ほかに「(豊)葦原中国(あしはらのなかつくに)」「大八嶋(洲)国」(記紀)がある。豊葦原瑞穂国は葦原中国とともに、神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称。

 

2.『国史大辞典』第11巻(国史大辞典編集委員会吉川弘文館 1990年)「にほん 日本」の項→「国号」の小項目あり。わが国の古い呼称として、次のものが挙げられている。

 ・大八洲(おおやしまくに)※「養老令」

 ・大八洲(島)国(おおやしまくに)※「古事記」、「日本書紀」神代

 ・葦原中国(あしはらなかつくに)※「古事記」、「日本書紀」神代

 ・豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)※「日本書紀」神代

 ・豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)※「日本書紀」神代  ・秋津島(洲)※「古事記」、「日本書紀」神武記・孝安記

 ・大日本豊秋津洲(おおやまととよあきずしま)※「日本書紀」神代 また、天平勝宝4(752)年ごろから「大和国(やまとのくに)」(「万葉集」)が用いられるようになり、以後、日本の国名にも「大和」が一般に用いられるようになった。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085724

 

これはまさに字面通りの解釈であるが、何故葦原なのかには答えていない。

次の解釈は最も一般的な解釈で、小生もそのように感じていたが、何故葦原なのかへの回答はできていない。

 

日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。

降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

豊葦原の瑞穂の国

古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。

 

建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。

紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。

(略)

https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44261239.html

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(49)

また天照大御神がお隠れになったと言う『天の岩戸』の話にも、鉄の話が出てきています。

 

 

真の国益を実現するブログ

【古事記】第十六回 天の岩屋戸

2014-12-26 18:17:27
テーマ:古事記

是を以ちて八百万(やおよろず)の神、天安(あめのやす)の河原に神集(かむつど)ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金(おもひかね)神に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天安河(あめのやすのかは)の河上の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売(いしこりどめの)命に科(おほ)せて鏡を作らしめ、玉祖(たまのおやの)命に科せて、八尺(やさか)の勾たまの五百津(いほつ)の御須麻流(みすまる)の珠を作らしめて、天児屋(あめのこやねの)命、布刀玉(ふとだまの)命を召して、天(あめ)の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦(ははか)を取りて、占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて、天の香山の五百津真賢木(まさかき)を根許士爾許士(ねこじにこじ)て上枝(ほつえ)に八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたかがみ)を取り繋(か)け、下枝(しずえ)に白丹寸手(しらにきて)、青丹寸手(あをにきて)を取り垂(し)でて、此の種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命、布刀御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天児屋命、布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷(ほ)き白(まを)して、天手力男(あめのたぢからをの)神、戸の掖(わき)に隠り立ちて、天宇受売(あめのうずめの)命、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて、天の真拆(まさき)をかづらと為(し)て、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋戸にう気(け)伏せて蹈(ふ)み登抒呂許志(とどろこし)、神懸(かむがか)り為て、胸乳(むなち)を掛き出で裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。爾に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲(わら)ひき。

 

(現代語訳)

八百万の神は困りに困り、天安の河原に集まり、高御産巣日神の子、思金神の思慮をつくさせ対策を練った。
 まず常世国の長鳴鳥を集められ、一斉に鳴かせました。鶏が鳴くと太陽が昇ることから

 天安河の河上の天の堅石と天の金山の鉄を取ってきて、鍛冶屋を探して、伊斯許理度売命に鏡を作るように言い、玉祖命に八尺の勾たまを作るように言いました。この時作られた鏡と玉が、後に天孫降臨によって高天原から地上にもたらされ「三種の神器」の二つになる。

 そして、天児屋命、布刀玉命をお召しになって、天の香山の牡鹿の肩の骨を丸抜きし、天の香山の朱桜を取ってきて、占いをして神意をはかり、天の香山の枝葉の繁った栄木(さかき、榊とは別)を根ごと掘りとり、その上枝に八尺の勾たまを取りつけ、中枝に八尺鏡(やあたかがみ)を取りかけ、下枝に綿と麻の布を取り垂らし、これらの物を布刀玉命が神に献る品物として取り持ち、天児屋命祝詞を述べて、天手力男神が戸の脇に隠れて立って、戸が緩むのを待ちました。

 神楽が始まりました。天宇受売命が天の香山のさがりごけを手次(たすき)に掛けして、つるまさきをかづらにして、天の香山の小竹葉を手に持つ程度に束ねて、天の石屋戸に空笥を覆せて置いた。そして大地を踏み轟かし、神懸った状態になると、胸もあらわに、裳の紐も陰部まで押し下げて垂らした。これに高天の原は揺れ、八百万の神々は共に笑った。

https://ameblo.jp/datoushinzoabe/entry-11969354047.html

 

 

天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて』の後はすぐに「伊斯許理度売(いしこりどめの)命に科(おほ)せて鏡を作らしめ、」と飛んでしまっているが、

 

 

鍛冶師を探してどうしたかが、どうも抜けているようにも感ずる。

 

「鍛冶師を探して、いしこりどめの命に鏡を作らせた」では、話の通じかすこぶる悪いように感ずる。

 

「鍛冶師を探して・・・・・して、更にダレダレに鏡も作らせた」と言う事ではないか、と先の書の171には書かれているのである。

 

それが807年(大同二年)に斎部広成平城天皇へ撰上した「古語拾遺」に収められていると言う。

 

その一文がこれだ。

 

天の目一筒神アメノマヒトツノカミをして雑クサグサの刀タチ・斧及鉄クロガネの鐸サナギをつくらしむ

 

文字通り目一つになってしまった神とは、タタラの温度を見るために火窪(ほど)を見つめ、長い間に片目となってしまった鉱山師のことであり、「古語拾遺」の補注には、彼らのことを「異形の人」として神と崇めた、と書かれている、としている。

 

更には天宇受売命アメノウズメノミコトの舞う様子も、次のように記している。

 

手に鐸サナギ着けたる矛を持ちて、・・・巧みに俳優ワザオキを成し、相ともに歌い舞わしむ

 

そして鐸をサナギと読み、「大鈴なり」と説明している、という。銅鐸や鉄鐸は鈴として使われていたと言う事か。

 

 

確かに、「記紀」には鉄にまつわる話が数多く載せられており、鉄を抜きに古代史を理解することはほとんど不可能と言う事は、本当の話のようである、”ようである”ではなくて”本当の話”だったのである。

 

天照大御神の時代から鉄の話が存在していると言う事は、相当昔から日本列島では製鉄が行われていたと言う事で、日本は当時の先進地域であったのではないのかな。

 

 

そしてこの鉄の話が、次のテーマの銅剣・銅矛・銅鐸が埋められていった話とつながってゆくのである。

 

日本列島には、早くからこのように鉄を作れたことから、銅剣・銅矛・銅鐸はそれほど必要なかったと言う事なのである。

(続く)

邪馬台国とはなんぞや?(48)

ここでは「タタラ製法」について、勉強してみよう。

 

Wikipediaによれば、次の通りである。(https://ja.wikipedia.org/wiki/たたら製鉄

 

1.古代では、自然風によって木炭の燃焼が行われたため、炉は斜面に作られていた。

 

2.風上に炉口、炉の床は木炭粉と石英で作られ、木炭と砂鉄が交互に層をなして並べられる。

 

3.炉口から火をつけ、燃え尽きて火が消えて冷えれば、還元鉄が得られる。

 

4.フイゴ式よりも低温であったために、純度の高い鉄が得られた。

 

5.ただし、非常に長い時間を要し、生産量は少なかった。

 

6.砂鉄は主に四酸化三鉄(Fe3O4)又はFe3O3。炉の中を降下してゆく過程で、COと反応して、

 酸化第一鉄(FeO)となり、高温領域ではFeOCOと反応して鉄(Fe)が取り出された。

 

 3Fe2O3 + CO →2Fe3O4 + CO2Fe3O4 + CO → 3FeO + CO2FeO + CO → Fe + CO2

 

7.下部の高温域では、砂鉄と木炭との間でじかに還元反応が起こる。(直接還元↑黒字部分)

 

8.燃料として大量の木炭を用いるため、一山が禿山となってしまう程で、計画伐採と植林が必要

 となった。

 

9.砂鉄を採掘・選別することを「鉄穴(かんな)流し」と言い、丘陵が掘り崩されたりしたため棚田や

 段々畑として利用するように工夫された。

 

 

日立金属株式会社のホームページ(?)の「Materials Magic」より借用して、「タタラとは」を次に載せるので、ご一読願う。

 

 

たたらとは

ケラ押し法

次に実際のたたら操業をケラ押し法の場合で見てみましょう。

ケラ押し法は、真砂砂鉄の採れる中国山地の北側で主に稼働した方法で、操業開始から終了まで三昼夜、約70時間かかるので三日押しともいいます。

まず低融点で還元性のよい籠り砂鉄を投入し、次に木炭を投入して燃焼させ、ノロ(鉄滓)を作ります。その際、発熱反応によって炉内の保温が良くなります(籠もり期)。

さらに炉温を上げると、ノロだけでなくズク(銑鉄)もできてきます(籠り次ぎ期)。

次第に真砂砂鉄の配合を増していくと、ケラ種ができ、炉況は活発になり、炎は山吹色に高く輝きます。そして、炉が次第に侵食される一方、ケラが成長します(上り期)。

さらに真砂砂鉄の装入を増して、ケラを大きく成長させますが、このころになると炉壁は痩せ細り、これ以上の操業に耐えられなくなり、たたらの操業を終了します(下り期)。

以上が一操業で、一代(ひとよ)と言います。

一例を挙げますと、一代に装入する砂鉄13トン、木炭約13トンに対し、できるケラは2.8トン、ズクは0.8トン。したがって、鉄の装入砂鉄に対する歩留りは28%と、現在から見れば非常に悪い値でした。
このケラの中から選別された良い部分は玉鋼(たまはがね)といい、日本刀など高級刃物の原料にされましたが、2.8トンのケラからとれる玉鋼は1トン以下という僅かなものだったのです。したがって、玉鋼がいかに貴重なものだったか分かると思います。

たたらの操業

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0104.htm

村下(むらげ)

たたら作業の技術責任者を村下(むらげ)と言います。村下は連日連夜たたらの炎と、たたらの側壁下部に設けられた「ほど穴」から炉内の状況を観察しながら、砂鉄や木炭の装入や鞴を踏む速度を細かく指示し、炉況の安定を図ります。

堀江村下(故人)は、『初日の籠もり期には朝日の昇る色に吹き、二日目(中日)は太陽の日中の色に吹き、最後の日の下り期には日が西山に没する色に吹けと父の村下から教わった』と言っています。

長年にわたって高温の炉内を直視するため、村下の眼は強い光によって衰えを早め、ついには全く視力を失うに至るとのこと。村下はまさに火との壮絶な闘いによって鉄を作ったのです。

 

たたらを操業中の木原村下。(文部科学大臣認定の玉鋼製造「たたら吹き」の選定保存技術保持者)

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0105.htm

 

ここにも、ほど穴」、火窪(ほど)への言及がありますね。古代でもタタラ製鉄で目を潰してしまった人のことを異形の人として、それなりに尊敬されていたと言う。

(続く)