創価学会と中国共産党(2/4)

1965年7月、有吉同席の元、秋谷らは「孫平化、劉徳有」らと会った。これが中国と創価学会との最初の接触となった。

1968年9月創価学会第11回学生部総会で池田大作日中国交正常化の提言」を行った。これで中国側は俄然、池田に注目するようになる。鎖国状態から脱して、日本に対する影響力を回復したいと考えた。

しかも最高指導者が絶対的な権力を持っていることや上下関係が厳しいなどの共通点や1,000万人の会員数は、中国にとっても創価学会はきわめて利用価値の高い団体と考えられた。

1970年3月、松村と池田が会談。松村は、池田の日中国交正常化の提言」を評価し、訪中を進めた。しかし池田は、慎重に「国交回復は政治の次元、創価学会は仏教団体ですので、創価学会が創設した公明党に行って貰いましょう」と応じた。

 その後公明党代表団が訪中し、中国とのパイプを形成することになる。

1971年3月~4月、いわゆる「ピンポン外交」で中国とアメリカの選手団が仲良くなり、同年4月10日アメリカ選手団が訪中し、「ピンポン玉は軽いが、友情の重みは計り知れない。」との周恩来の言葉となる。

1972年2月21日ニクソン訪中。

 (以下(3)項まで、//www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog312.htmlも参照しながら進める。)

1972年5月周恩来公明党の代表団を招待していた。(この1月下旬には、激しく展開していた「日本軍国主義」批判キャンペーンをぴたりと止めていた。)

そして、「次期総理は田中さんで間違いありませんか。私は田中さんには恥はかかせません、と是非お伝えください。」と伝えた。

周恩来中国共産党による公明党懐柔へ。)

・田中は、福田と同じ「親米・親台湾」の佐藤栄作派閥に属していたが、「日中国交回復」を飲み、親中派の大平派、三木派を懐柔して政権をとることになる。

1972年7月7日田中角栄政権が誕生するや、孫平化らは公明党の竹入義勝委員長らと接触した。

 

1972年7月25日、中国側の要請を受けていた竹入委員長らは、密かに香港経由で北京入りした。勿論、事前に田中角栄大平正芳外相とは綿密な打ち合わせを済ませていた。

竹入・周会談は7/27、28、29と3回に渡り、日中国交樹立の概要が決まった。中国側は対日賠償請求の放棄、日台国交断行の基本合意である。

(3)日中国交樹立

1972年9月25日、田中は北京入り、以後29日まで交渉は続く。周恩来公明党を通じ「賠償請求権を放棄する」と伝えていたが、会談では賠償問題を持ち出した。

 田中・大平側はうろたえた。その後その問題をあっさりと引っ込めた代わりに、巨額な援助を持ち出す。これが総額6兆円に上るODAとなって現在に至っている。

 [ここら辺にも、公明党の入れ知恵が臭わないでもない。]

・前年の1971年に中国は突如、尖閣列島の領有権を主張し始めている。本来の国交正常化交渉であれば、当然真正面から議論すべきであったが、しかし田中は交渉の難航を恐れて、この問題を棚上げにしてしまう。

突然の領有権の主張であるので、日本は断固として突っぱねることが出来た筈である。「国交正常化」を急ぐあまりに、この問題を曖昧にしてしまったことは、末代まで禍根を残すこととなった。田中やはり馬鹿たれだ。

 [果たして、周恩来公明党の間に何があったのか、疑問の残るところである。]

1972年9月27日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明の調印式が、北京で行われ、日中間の国交が樹立したのである。

 その代わり、中華民国(台湾)とは、国交が断絶したのである。

(続く)