220908纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(49)

さて、「高志八俣遠呂智コシノヤマタノオロチのことであるが、いかにも妖怪面しているが、田畑を耕しているアシナヅチテナヅチ達にとっては、毎年定期的に訪れては「悪さ(氾濫)」をしていく「高志八俣遠呂智」(斐伊川)には、ほとほと困り果てていたものと思われる。 

 

台風や大雨で氾濫する斐伊川には、農業に神様たちにとってはとても厄介なものであった。そんなところへスサノオがやって来たのであり、何らかの斐伊川の氾濫対策を、スサノオが施したのではないのかな、と小生は感じているものである。土木工事などではなくても、氾濫の影響がない田畑の開拓などを、スサノオは施したのではないのかな。 

 

探せは、そんな神話は出てこないものかな、とも思っている。摘む、刈るための太刀と言った話は、そんなことと関係しているのではないのかな。 

 

 

 

さて「肥の河は真っ赤に染まった」と言うことであるが、これはすでにご承知のように、「砂鉄」によるものである。出雲では踏鞴タタラ製法と言う方法で、土で作った高炉で木炭を燃やし、そこに砂鉄を投入して鉄を作ることが行われていた。 

 

タタラとは次のような炉である。なおタタラとは、この炉の下側面に空気を送り込む筒がつながれており、そのふいごがタタラに似ていることから言われたいるようだ。 

 

炉[菅谷たたら山内]  タタラ製法 

https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-outline/part-3/ 

 

 

また、その砂鉄を得る方法として、鉄穴(かんな)流しという方法がある。 

 

Wikipediaによれば、砂鉄を多く含む岩石(花崗岩)や土砂を水路に投入して、土砂と砂鉄を分離させるものである。砂鉄を分離させるために、途中では水を加えてかき混ぜて、砂鉄と土砂を分離しやすくする。 

 

この作業を行うと鉄分を含んで赤く濁った水が大量に配水されるので、この様子がヤマタノオロチの血で肥の河が赤く染まったという話の元になっているものと思われる。(https://esdiscovery.jp/vision/es003/jlegend005.html 

 

また肥の河がたびたび氾濫していたのは、風化しやすい花崗岩質の地域を貫流していたために、風化物が大量に流れ込んでたびたび洪水を起こしたものであり、そのため、高志八俣遠呂智コシノヤマタノオロチ」の伝説の元になったものと思われる。 

 

その洪水のために、たびたび川の流れがほ変わってしまったのであり、 

 

その中でも一番規模の大きい川違えは寛永12年(1635年)の洪水の際に行われたものである。この工事によって、それまで神門水湖(現在の神西湖)を通じて日本海に注いでいた斐伊川を完全に東向させ、宍道湖に注ぐようにした。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/斐伊川#歴史 

 

9/8のNO.48では、斐伊川宍道湖にそそいている、と書いたが、これは現在の姿であり、スサノオの時代には、矢張り日本海にそそいでいたのであった。 

 

 

さて、遠呂智退治をしたスサノオ、「櫛名田比売クシナダヒメ」と結婚することになる。 

(続く)