これは雑誌・『歴史人』のNO.154(2023年10月号、ABCアーク発行)に掲載されている次の論考
「邪馬台国論争の現在地」Page20
「卑弥呼の「真説」」Page30
で記載されている中にみられる「間違い点」を、以下説明してゆきい。
なおこのテーマは、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?」(2018.08.08~)を底本としているので、ご参考までに。
そこでは2018.08.09~10の二日間で「魏志倭人伝」本文も載せているので、ご参照願う。
先ず表紙の右下に記載されている
「邪馬台国の畿内説と九州説がついに決着!?」と言う表題の説明書きの中に、「畿内説が優勢である。」との文があるが、これこそ単なる「煽り文」であり、なんの証拠もないものであり、現実には何の決着もしていない。というよりも邪馬台国は北部九州に存在していた、というのが正解であることが判明している、と言った方が(追々説明するが)よかろう。
同じ趣旨のものが、P21に末尾に大きく「近年では畿内の発見が相次ぎ、畿内説が優勢である」と書かれている。これこそも「まがいもの」以外の何ものでもない。
もう一つ、表紙の左部分に記載されている「卑弥呼の正体が判明?・・・倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い」も、大いなる間違いである。
邪馬台国の所在地は興味や趣味の範疇で論ずるものでなく、優勝劣敗で論ずるべきではない。客観的に証拠立てて、所在地は論せられるべきものではないのか。
P22の冒頭では「所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級資料を読み解く」と書いてあり、しかも次では魏志倭人伝の「表現が曖昧で位置論争の原因に」と書かれているので、魏志倭人伝の正確な解説にトライしているのかと思いきや、ただ単にそのうわっ面をなぞっているだけであった。読み解くなんぞは真っ赤な嘘。
以下既述の間違いを羅列してゆく。
さてその証拠に同P22の本文中ごろに①「さらに、107年には倭国王師升らが奴隷107人を安帝に献上したことも記されている。」が、これこそがその間違いの証拠である。
107年に107人の奴隷と何の疑問もなく繰り返しているが、いい加減に文章を書いているとしか思えないのである。
その頁の上部には、「107年には倭国王の師升が生口160人を献じ、請見を願った」(「後漢書」東夷伝)と書かれているが、こちらの方が正しいようだが、160人を107人と間違えるとはなんといい加減なことか。
更には、P22の挿絵地図の「『魏志』倭人伝に記された邪馬台国までの行程」では、九州説と畿内説を説明しているが、胡散臭い説明に終始しているだけである。
この疑問を解くために、P23で、
・倭人伝の距離の記載が誤りであるとして、邪馬台国は九州にあるとし、
一方では
・方角の記述が間違っているとして、邪馬台国は畿内にあることになる。
との説明をしており、②「魏志倭人伝」の内容の精査には取り組んでいない。
「魏志倭人伝」は、中国の晋王朝公認の歴史書である「魏・呉・蜀」の三国の国史65巻の中の「魏国史」の中の東夷伝の「倭人の条」が該当しているもので、距離とか方角とかが間違っているなどと迂闊にも言えるものではない。それなりに精査された歴史書であるからして、距離も方角も正しいとして「魏志倭人伝」を読む必要があるのであり、その点、この『歴史人』の記載はまことにいい加減なものである。
邪馬台国の所在地は「魏使倭人伝」に従って別途解説するが、今のところ北部九州の福岡平野の春日市当たりとしておこう。そこは「奴国」の中心地でもある。
(続く)