『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(2)

そしてP25には、末尾で、卑弥呼の墓かともいわれる箸墓古墳」との表現があり、あたかも最古の前方後円墳である箸墓古墳卑弥呼の墓であるかのような書きっぷりであり、しかも確信がないが卑弥呼の墓であると断定的に言っている様な感じもするものであるが、「魏志倭人伝」を読めば卑弥呼の墓は円形状であり、前方後円墳ではないことがわかる筈である。 

 

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人 

 

とある様に、冢とは小さな土盛りのことで、卑弥呼は女王であったのであるから一般の冢よりも大きな土盛りで、その径百余歩とある様に円形状である。しかも径百余歩とはバカでかい。 

 

Wikipediaによれば、魏代では一歩が約1.44mだと言われているので百歩で144m、百余歩ではおおよそ150m~160m前後の直径であろう。このバカでかい土盛りであるが、「径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人」も「露布の原理」により十倍に誇大表示されたものであり、実際には「径十余歩、殉葬する者、奴婢十余人」となり、冢の直径は「15m前後」で殉葬された奴婢の人数も「15人前後」となり、常識的な数字となるものである。 

 

露布とは戦時広報の事であり、当時は一般向けには戦果を十倍に拡大させて発表していた慣例があり、晋王朝の祖である司馬懿が関係している露布の内容を三国志の編者である陳寿は迂闊に修正できなかったものと思われる。 

魏志倭人伝は「露布の原理」によって誇張されていたということである。 

 

事ほど左様に、この「歴史人」の書き方は、「魏使倭人伝」の分析・解釈がなされていないものである。 

 

ちなみにP25やP29で言及している「箸墓古墳」は初期の前方後円墳で、 

全長約280m、円墳の直径は約160m、高さは約30mである。決して卑弥呼と関係のある古墳ではない。 

 

卑弥呼の墓はあくまでも冢・チョウ(塚・土盛り)であり(古)墳ではない。 

 

そのような冢・チョウ(塚・土盛り)は、すでに見つかっている。 

 

それは糸島市前原町にある「平原遺跡」である。平原遺跡は糸島市前原町にある東西二つの遺跡により構成されているものである。主噴は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲を巡っている。実際には「方形周溝墓」と言われる形態の墓である。 

 

ちなみに殉葬者のある墓は、この平原遺跡しか見つかっていないし、殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が16人分発見されているので、「魏志倭人伝」の「殉葬する者、奴婢百余人」の十分の一の十数人と一致しているのである。 

 

しかしながら「歴史人」P27では、この平原遺跡のことを次の様に書いている。 

 

糸島市平所遺跡は墳を中心とした遺跡跡として知られており、1号墳を卑弥呼の墓とみる説もある。 

 

平原遺跡」を「平所遺跡」と間違って記載しているのである。しかもご丁寧に「ひらどころ」と仮名までふってあるのである。 

 

平原平所では、大いに異なっているのである。ここで、小生は始めて平所遺跡なる言葉にお目にかかったものであり、この項の著者はよく平所遺跡の名前を知っていたものだと感心する次第である。 

 

調べてみると、平所遺跡とは島根県松江市の矢田町にある弥生時代終末期から古墳時代にかけての遺跡である。この遺跡は埴輪窯跡から出土した各種埴輪が有名であり、古墳時代の埴輪生産の様相を良く知ることが出来る学術的な価値が高い遺跡として有名である、と言うことだ。 

 

福岡県糸島市前原町平原遺跡を、島根県松江市矢田町平所遺跡と間違えて記載するなんぞと言う「とんでも間違い」はこの世にあり得ないものであろうと思えるのである。

(続く)