『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(3)

この項の著者(監修・文)は駒澤大学歴史学科の教授である瀧音能之氏だと記載されているが、きっと部下の学生などが担当したものであろう。それにしてもチェックも甘すぎると言うものであり、160人を107人と書き間違えたり平原遺跡を平所遺跡と間違えるなど、どんな監修を行っているのか、こんな間違いを見逃すとは出版停止ものである。 

 

以下のことは歴史人には書かれてはいないが、この平原遺跡の副葬品には武器などは殆ど見つからず(三種の神器と同じ、鏡・玉・剣は副葬されている)、その代わりにネックレスやイヤリング、ピアスなどと言ったアクセサリーが多いという、葬られている人物は確実に女性ではないかと考えられているのである。こんな大事なことも書かれていない、と言うことは、まことにいい加減な仕事しかしていない、と断定されても仕方がないものである。教授の瀧音能之氏の名前も廃れるというものではないのかな。 

 

だから、卑弥呼はこの平原遺跡に葬られていると考えて、間違いはないであろう。 

 

粗探しだけだと申し訳ないので、序ながら、以上の要点をまとめてみると、 

 

1. 卑弥呼の墓は15m前後の長さの塚で、(前方後円)墳ではない。 

2. 殉葬者がある。平原遺跡主噴には16人の殉葬者が葬られている。 

3. 平原遺跡主噴は、実際には、17m×12mの方形周溝墓である。 

4. 副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスなどと言っ
  たアクセサリーが多い。 

5. しかも(この「歴史人」には書かれてはいないが)この主墳からは40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は直径46.5cmの大型内行花文鏡である。いわゆる「八咫鏡」と同類のものであろう。これら40面の鏡は内行花文鏡方格規矩鏡などの漢鏡である。これらが下賜された百枚の銅鏡の一部なのでであろう。 

6. 平原遺跡は、実際には、合計五つの墳墓からなっており、1号墳(主噴)以外からは青銅器類は発見されていない。  

 

だから卑弥呼の墓は、この平原遺跡の1号墳である、と言えるのである。 

だから邪馬台国北九州のこの近くに存在していた国なのである。 

 

 

 

さて「歴史人、NO.154」のP27の末尾(P29にも)には、以下のようなことも記載されている。 

 

しかし、邪馬台国を北部九州に設定するとヤマト政権の関係をどのように捉えるかという問題も残されている。 

 

だがどこにも邪馬台国とヤマト政権が関係しているなんぞと言うことは、記録されていないのであり、あくまでも邪馬台国は北部九州の30カ国の連合であり、畿内の大和政権とは関係ないものである、と考えた方がよかろう。 

 

当時畿内大和には、すでにかなりの勢力の国家が存在していたものとみて、間違いないものでしょう。なんと言っても、全長280mもの前方後円墳を作り上げることのできる力があった訳であるから。P30には「何よりも『古事記』や『日本書紀』といった日本側の基本資料に、卑弥呼に関する既述が残っていないということである。」と書いてある通り、卑弥呼は九州の北部地方の一首長に過ぎなかったわけである。だから邪馬台国畿内にあったとか、東遷したとかいう話は全くの虚偽、作り話と断定できるのである。P31の『卑弥呼はいったい誰なのか?』の言う記述も、「戯言(ザレゴト)」の類となってしまう。 

 

さて「歴史人、NO154」の次の問題点は、P28の魏から授けられた銅鏡百枚についてである。次の様に書かれている。 

 

この時下賜された銅鏡をめぐって、三角縁神獣鏡との関係が取りざたされてきた。 

 

この三角縁神獣鏡の出土数が500~600枚になっている(560枚ほど)ので、さすがに卑弥呼の鏡だとは断定していないが、魏鏡説と倭国製とを対比させた訳の分からない論点を並べている。これは無駄な作業である。 

 

三角縁神獣鏡は、その材質から、神岡鉱山からとれた鉱物と同じ材質でつくられている倭国製の鏡であり、魏から下賜されたものではない。 

(続く)