伊都国は邪馬台国の政治の中心地だったのである。そのため、「大率」が伊都国にいたのである。そして文書や賜りものなどをしっかりとチェックしたのである。これが「皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」なのである。
(9)この「皆津に臨みて」の津が不弥国である。
不弥(ふみ)=うみ(海)=津、と言うことである。
伊都国は福岡県糸島市の平原遺跡の周辺に存在し、奴国は須玖岡本遺跡辺りの春日市近辺であったと考えられるが、これでは離れすぎている(約20km)。
もっと近場の海に近い所に不弥国はあったはずである。十里(4.34km)程度とすると、平原遺跡のすく近くに筑肥線の周船寺駅がある。ここは大和朝廷の主船司(しゅせんし)、今の海上保安庁の出先があったところであり、昔はすぐ近くが海であった所である。
嘗ては糸島半島の付け根には「糸島水道」という水路が走っていたのであり、帯方郡の使いは、末羅国(唐津市辺り)から船で糸島水道を通過して不弥国の津に着き、そこで上陸して陸路で伊都国まで到ったのではないのかな。
糸島半島
古代糸島水道 → 博多湾
魏使----→→主船司(不弥国)
←//
平原(伊都国) 陸行
高祖山(宮殿所在地、奴国)
といった塩梅ではなかったのかな。
以上が「歴史人、NO.154」の邪馬台国と卑弥呼に関する記述の「補完すべき点」の説明である。
以下それらを一覧にまとめておく。
「補完すべき点」
(1) 女王国は倭国の最南端に位置している。
(2)奴国は倭国の極南界に位置している。奴国=女王国(女王の居る所)
(3)帯方郡より女王国までは、万二千里である。
(4)対馬と壱岐の島の周囲を巡り距離を加えると、奴国までは丁度12,000里
となる。
(5)水行十日、陸行一月は、共に12,000里となり、郡より女王国までの距離
を示している。それほどの距離である、と言うこと。単なる説明書き。
(6)女王卑弥呼は倭国連合の女王となり、奴国に居城していた。
(7)女王国=奴国≠邪馬台国=三十カ国=女王の都する所となる。
(8)方角、距離、国名という順序と方角、国名、距離という違う順序では意
味が異なる。伊都国からは放射状に辿るべきである。
(9)不弥(ふみ)=うみ(海)=津、と言うことである。糸島半島は当時は
島であり、半島の付け根には糸島水道があり、魏使は末羅国(唐津)か
ら糸島水道を通り、不弥国の津(港)に入り、陸路で伊都国へ向かった
筈である。
まあこの程度は誰でも知っていることなので、ABCアークも「邪馬台国」と「卑弥呼」を扱うのであれば、この程度の解説はしておくべきであり、⑧はっきりと邪馬台国と大和朝廷とは関係がない、と解説しておくべきなのである。
P29などでは、邪馬台国がヤマト政権に、あたかも連なるのではないか、と思わせる書きっぷりであるが、これは大いなる間違い。邪馬台国や卑弥呼は大和政権とは何の関係もない。
しからば大和朝廷の成り立ちにもっと筆を割くべきであろう。邪馬台国はあくまでも北部九州の一地方の言うなれば小さな連合国家であったわけなので、本筋論として、日本国の成り立ちである大和朝廷の成立にも「歴史人」は筆を割くべきである。
念の為にここで、小生の指摘する「歴史人、NO.154」の間違いをまとめておくことにする。
①P22、107年の奴隷献上を107人としているが、これは160人が正しい。
②P23、「魏使倭人伝」の内容を精査していない。距離又は方角が正しくな
いと判断しているような記述に終始している。
③P25、箸墓古墳を、あたかも卑弥呼の墓であると表現している。箸墓古墳
は初期前方後円墳であり、卑弥呼の墓は大きな冢(土盛り、塚)で
あり、まったく異なる。
④P27、糸島市の「平原遺跡」を「平所遺跡」と間違って記載している。
⑤P28,P37、「三角縁神獣鏡」は国産の鏡ではないかと言っているが、肝心な
材質への言及がない。
⑥P39、「箸墓古墳」の近くにある「矢塚古墳」を「八塚古墳」と間違って
表現している。
⑦P23、帯方郡から邪馬台国への行程の分析がなされていない。「郡より女王
国に至ること万二千余里。」を分析していないのは致命的欠陥。
⑧P29、邪馬台国がヤマト政権に、あたかも連なるのではないか、と思わせる
書きっぷりであるが、これは大いなる間違い。何の関係もない。
と言ったところであるが、詳しくは小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?」(2028.08.08~)を参照願う。そこでは「魏志倭人伝」とともに、より詳しくこれらの関することが記載されている。
また小生ののブログ「纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史謎)」(2022.07.04~)も参照願いたい。
(終わり)